めんこ
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この項目では、玩具について説明しています。競馬の馬具については「馬具#メンコ」を、米飯を盛る器については「飯盒」をご覧ください。
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932はしご高))が含まれています(詳細)。めんこ

めんこ(面子)とは、日本の子供の遊びで使われる玩具の一つ。めんこの語源は「小さな面」を表す「面子」である。マージャン用語は無関係。昭和30年代(1955年 - 1964年)においては、めんち、ぱんす、ぱっちんとも呼ばれていた[1]

めんこは素材により、大きく分けて泥めんこ、鉛めんこ、紙めんこがある。もっともよく知られているのは紙めんこであり、厚紙製で手の平大の長方形か円形で、片面に写真や図柄が印刷されている例が多い。また、紙めんこを使用する遊びそれ自体もめんこと呼ぶ。めんこのカード自体がコレクションの対象にもなっている。児童文学作家の渋沢青花1889年 - 1983年)も、少年時代はめんこのコレクターで、新たに入手しためんこは遊びでは使わず、余分のめんこを使用したと証言している[2]

駄菓子屋などで販売されているが、牛乳瓶のフタなどの適当な素材で代用することもある。昭和時代の日本では、子供の遊びとして広く流行した。

なお、紙めんこに似た遊びに英語圏のmilk caps、韓国のダクチ(??)などがある。
歴史
江戸期の泥めんこ

遅くとも江戸時代にはめんこの存在が確かめられている。材質はセラミック、木材、鉛、紙などがある。古くは面打ち、面形などの名称もあった[3]

江戸時代には.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}穴一(あないち)遊びと呼ばれる遊戯があった。穴一遊びは地面に掘った小さな穴に、無患子の木の実、キサゴという貝、絵銭などを投げ入れる遊戯である。穴に入れば勝ち、穴の外にあるこれらの物に他のプレイヤーが命中させても勝ちというルールで遊ばれたようだ(『守貞漫稿』による)[4]天保年間(1831年 - 1845年)には穴一遊びの遊具として泥面を用いることが広まっていた。泥面を用いた穴一遊びは明治中期に至るまで子供たちの間で根強く行われた。

絵銭・面模・芥子面・泥面を用いた遊びは、後世になって泥めんこと総称されるようになった[5]

なお、泥めんこを用いた穴一遊びは石蹴り(地面に描いた図形に石を蹴り入れる遊戯)のルーツになったとも言われている[6]

泥めんこの流行は明治初期まで続いたが、鉛めんこの登場により衰退し、その後は一部の地域における郷土玩具や寺社の土産物として残存するにとどまる。
明治期の鉛めんこ

明治10年代(1877年 - 1886年)になると鉛めんこが急速に普及した[7]

江戸期からあった「からから煎餅」と呼ばれる菓子には、もともと土製の芥子面がおまけとして入れられ、おはじき遊びのような用途に供されていた。からから煎餅に芥子面にかわって鉛製の玩具が入れられるようになり、やはり最初はおはじき遊びのような遊びが行われていた[8]。そのうちに鉛という材質に適した「起こし」と呼ばれる遊び方が一般的になった[9]

遊具の系譜では、鉛めんこは従来のセラミック製の芥子面や泥面を鉛という材料で置き換えたものであるが、セラミックの時には得られなかった特有の遊び方を生んだ[10]。鉛めんこで生じた独特の遊び方に「トーケン遊び」や「起こし遊び」がある。鉛めんこを「起こし遊び」により何度も使用すると変形が起こり、図柄も歪む。不細工な顔を意味するおかちめんこはこの歪んだめんこの図柄に由来する言葉である[11][注釈 1]

しかし、鉛めんこは1900年の大阪での鉛中毒事件により[12]一気に下火となり、従来の研究ではおよそ20年の歳月で姿を消したとされている[7]。しかし、大正期に小学時代を送った大岡昇平1909年 - 1988年)の回想に鉛めんこの記述がみられ、実際に下火になった時期については異説もあり得る[13]湯川秀樹1907年 - 1981年)も、少年時代の記憶として鉛めんこと紙めんこがほぼ同時期に併存していたと証言する[14]。これらをもとに、鉛めんこは1910年代まで命脈を保った、とする文献もある[15]
紙めんこの登場

紙めんこが登場したのは明治10年代(1868年 - 1877年)である。子どもたちは画用紙を幾重にも折って紙めんこを作っていたが、その商品化を考えていた大人たちにとって画期的だったのがボール紙の登場であった。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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