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株式会社兵庫銀行(ひょうごぎんこう)は、かつて兵庫県神戸市に存在した第二地方銀行である。通称は相互銀行・普通銀行時代を通して兵銀(ひょうぎん)。経営破綻するまでは、現在の東京証券取引所に上場していた。1995年に経営破綻、その受け皿銀行となった株式会社みどり銀行についてもここで記す。統一金融機関コードは0561だった。
兵庫銀行の本店は神戸市中央区三宮町1丁目1にあったが、阪神・淡路大震災で建物が倒壊したため、跡地には三宮セントラルビルが建てられ、同年設立された受け皿銀行みどり銀行の本店は神戸市中央区生田町1丁目4番3号に置かれた。なお現在は、整理回収機構を通じて売却されている。
明治28年から明治37年まで存在した株式会社兵庫銀行(株式会社兵庫共融銀行(明治22年?明治28年)が改称)とは別法人である。
沿革
兵庫銀行
1912年10月、三木市にて設立された三木市の三木勧業株式合資会社を前身とする。その後、三木無尽株式会社に改組された同社は、姫路市の山陽金融無尽株式会社と合併し、山陽無尽会社が誕生、当時全国無尽会社中第4位の規模だった。
1944年6月20日、おりしも日中戦争以降の経済統制下、無尽会社の合同が求められ、兵庫県下の3社(東亜・神戸大同・山陽の3無尽株式会社)が統合(新設合併)、兵庫無尽株式会社が創設される。
当時、全国無尽会社総数は63社で、兵庫無尽会社は全国無尽会社中第3位の規模。また、1949年9月、神戸市に七福相互無尽株式会社が設立(後の、株式会社七福相互銀行→株式会社阪神相互銀行→株式会社阪神銀行)されるまで、県下唯一の無尽会社であった。
1951年10月、兵庫無尽は株式会社兵庫相互銀行に商号変更。
1971年10月、かねてから関係が深かった高松相互銀行を吸収合併。
1989年2月、普通銀行に転換し株式会社兵庫銀行に商号変更。
1995年8月、銀行として戦後初めて経営破綻[1]。
これまで経営危機のある金融機関は、平和相互銀行、東邦相互銀行等、必ず救済合併が図られており、護送船団方式の崩壊と言われた。
1996年3月29日、解散。
2001年6月8日、清算終了。
みどり銀行
1995年10月27日、神戸財界等の出資により、株式会社みどり銀行設立(資本金709億5,560万円)。
1995年10月31日、株式会社みどり銀行に銀行業免許が交付された。
1996年1月29日、みどり銀行が、兵庫銀行の営業を譲り受けて営業開始。第二地方銀行協会の会員資格にある「会員から営業を譲り受ける目的で新たに免許を受けた銀行」の第一号となった。
「会員から営業を譲り受ける目的で新たに免許を受けた銀行」は、現在では東京相和銀行の受け皿銀行となった東京スター銀行のみが現存し、ほかにあった太平洋銀行の受け皿銀行となったわかしお銀行(=行名変更し現在は三井住友銀行)、幸福銀行の受け皿銀行となった関西さわやか銀行(=関西銀行に合併し現在は関西みらい銀行)などは合併などにより消滅している。
1999年4月1日、みどり銀行は阪神銀行に吸収合併されて「みなと銀行」が誕生した。
バブル期に業績拡大
1970年に山本義政の後任として兵銀の社長に就任した長谷川寛雄は積極的な拡大路線をとった。翌年の1971年には高松市の高松相互銀行を合併し、香川県や徳島県にも店舗網を広げることとなった。その後、長谷川が会長となって実権を握りつつ、1981年に元日本銀行考査局長を社長に迎え、1982年には元国税庁次長と社長を交替した。
こうした中央とのパイプ作りも奏功し、80年代に入って兵銀の預金量と貸出量は増大し始めた。1987年には預金量が1年に1兆円も増大し、1985年の資産1.8兆円、資本金110億円が、ピークの1990年3月にはそれぞれ4.4兆円の2.4倍、640億円の5.8倍へと急膨張、当時第二地方銀行最大手となった。そして、1989年2月に宿願の普通銀行への転換を果たし、バブル景気もあって株価は5倍に高騰した。1991年に初の海外拠点・香港駐在員事務所を開設した。
しかし、内情を見てみれば1985年度から1994年度までの兵銀の主要業種別の貸出件数の推移を見ると、製造では4000件弱が2000件強へと半減、卸小売飲食でも9000件強からほぼ半減した。