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出典検索?: "みちのくプロレス"
株式会社陸奥種類株式会社
本社所在地 日本
〒020-0752
岩手県滝沢市大釜白山50-20
業種サービス業
法人番号8400001013085
事業内容プロレス興行
関連企画の運営
代表者代表取締役社長 瀧澤義則
関係する人物ザ・グレート・サスケ(創業者)
外部リンク ⇒http://www.michipro.jp/
特記事項:
1992年10月1日、株式会社みちのくプロレスを設立。
2005年7月4日、社名を株式会社みちのくエンタテインメントに変更。
2009年8月31日、社名を株式会社みちのくプロレスに変更。
2016年3月3日、社名を株式会社陸奥に変更。
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みちのくプロレスは、東北地方を中心に活動しているプロレス団体。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方)
概要
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ザ・グレート・サスケが地域密着型プロレス団体として設立。日本では初のローカル団体であるが、これは「地方の小規模会場であれば会場使用料が安い」、「地方では娯楽が少ない為潜在的な客層がある」という経営戦略の一部でもある。試合の宣伝、試合会場の設営と撤収、グッズ販売は所属選手とスタッフが自ら行う「手作りプロレス」をコンセプトとし支出を抑えている。他にも初期の事務所と道場はサスケの実家の納屋を利用するなどして徹底した支出抑制策をとった結果、1回の興行の集客が200人から300人規模でも利益を上げる事に成功している。サスケの個人的信条として職務中もマスクをつけているが他企業(プロレス団体を含む)を訪問したり、経理で金融機関を訪れる際もスーツにマスクといった姿であるため、副次的要因として旗揚げ初期には宣伝効果が高まった。全国を問わずマスコミの取材には積極的に応じて宣伝、広報活動の一環としている。
メキシコのルチャリブレを持ち味とするため、次の2点で日本のプロレス団体と異なる。 この節は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(このテンプレートの使い方) 1992年10月1日、ユニバーサル・プロレスリングを退団したザ・グレート・サスケが東北でのプロレス振興を目的に岩手に設立。サスケがユニバーサルを退団した背景にはギャラが支払われなかったという事情があり、代表の新間寿恒
リング周囲に衝撃吸収用のマットが敷かれていない。そのため、場外で投げ技を食らうとダメージが大きくなる(過去にサスケが断崖式パワーボムを受けて負傷したり、スペル・デルフィンが2度場外でパイルドライバーを受けて失神してしまうといった事態が起きている)。
タッグマッチで権利を持つ選手が場外に出た場合、控えの選手はタッチしなくても権利を得てリングに入って試合に加わることができる(タッチしたものと見做される)。スタイルの都合上、権利を持つ選手が飛び技を使って場外に出てしまうことが多いため、試合が膠着状態になることを防ぐと共に試合展開をスピーディーにするためである。また、そのルールに即した形で控え選手は待機中にタッチロープを持っていない。
歴史
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旗揚げまでの経緯
旗揚げで旗揚げ戦を開催。6月、複数のユニバーサル所属選手が、みちのくプロレスに移籍。
1994年2月4日、初の後楽園ホール大会を開催して超満員札止めを記録。しかし、当日の早朝に主催者であるバトル・クリップの代表が売上金と共に連絡がつかないことが発覚[1]。オープニングの挨拶でサスケはネタのように話していた。このニュースは週刊プロレス600号の表紙を飾った。4月16日、新日本プロレス主催で開催された「SUPER J-CUP」に出場したサスケが準優勝。6月13日、新日本プロレスで開催された「BEST OF THE SUPER Jr.」に出場したスペル・デルフィンが準優勝。
その後も所属選手が新日本プロレスに参戦して活躍したことでローカル団体ながら一気に全国区の人気プロレス団体になる。新日本プロレスの一部所属選手からは反感を買ったが上層部からの評価は良く、テレビ朝日の番組「ワールドプロレスリング」の解説を務めていたマサ斎藤は「みちのくプロレスのルーチャ(ルチャリブレ)ですか。こんな素晴らしくて楽しいものとは思わなかったですね。みちのくプロレスの選手の若いエネルギーを感じた」とコメント。
新日本プロレスでの活躍により、所属選手は他団体からひっぱりだこの状態になったり正規軍、ルード軍「デルフィン軍団」、ルード軍「海援隊☆DX」による抗争などで集客が伸びてビッグマッチや東北以外の試合会場はどこも常に超満員になった。 1997年3月、獅龍が退団。10月、TAKAみちのくがWWFと契約。 1998年1月16日、サスケの右膝負傷による長期欠場で活動休止に追い込まれる。1月17日、デルフィンら選手組合が記者会見を行って活動続行することを発表。3月、ディック東郷、MEN'Sテイオー、船木勝一がWWFと契約。9月23日、あることがきっかけでサスケとデルフィンに亀裂が生じる[2]。10月8日、サスケはリングネームをSASUKEに改名と同時にルード軍「SASUKE組」を結成[3]。12月、中島半蔵が退団。 1999年1月17日、デルフィン、愚乱・浪花、星川尚浩、薬師寺正人、瀬野優、練習生の木川勇人、レフェリーの松井幸則が記者会見を行って方向性に亀裂が生じて退団することを発表。1月18日、浪花がデルフィンらと別れて団体預かりとして再入団。
所属選手の大量離脱