みしはせ
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粛慎(みしはせ、あしはせ)は、日本正史である『日本書紀』や『続日本紀』などの中に記述が見られる民族である。同じ漢字表記を用いるが、中国文献に記される「しゅくしん」とは存在した時期にかなりの開きがあり、同一であるかどうかなど両者の関係性は不明である。本項では、『日本書紀』や『続日本紀』中にみられる「みしはせ、あしはせ」について述べる。
概要

粛慎の訓は「みしはせ」とする説と「あしはせ」とする説とがあり、未だに定まっていない。見の字を略したミの音を表す変体仮名が、片仮名のアと字形が似ているため、このような混乱が生じている。

『日本書紀』に「みしはせ、あしはせ」が登場する箇所は、大きく分けて以下の3つがある。
欽明天皇の時に佐渡島へ粛慎が来たこと

斉明天皇の時の阿倍比羅夫の粛慎討伐

天武天皇持統天皇の時の粛慎の来訪と官位を与えたこと

これら『日本書紀』や『続日本紀』中に、6世紀以降からの記述がみられる「みしはせ、あしはせ」について、どのような集団かという説はさまざまある。

蝦夷(えみし)と同じであるとする説。「みしはせ、あしはせ」を「粛慎」の漢字で記述するのは、中国の古典にも見られる由緒ある名前であるからとする。

紀元前に存在した中国文献中の「しゅくしん」と同じツングース系民族であるとする説。黒水靺鞨とされた北部靺鞨と思しき遺跡からの出土品と同時代の樺太(流鬼国と比定する説がある)から出土されるものは共通性があり、交易があったものと推測される。詳細は、「しゅくしん」の項を参照。

蝦夷とも中国文献に記される「しゅくしん」とも違う民族であるとする説(ニヴフアレウトなど、もしくは現存しない民族)。

続日本記の720年の靺鞨国という記述や、日本書紀の544年の佐渡島に来着した粛慎という記述から、渤海 (国)靺鞨高句麗北東部等の、かつて粛慎とされた中国東北部?ロシア沿海部地域の何者かが渡ってきたという説。

オホーツク文化人3世紀?13世紀)が粛慎ではないか、という説がある。オホーツク人は、遺伝子分析の結果[1][2]から現在樺太北部に住むニヴフ等の祖先とされ、北海道オホーツク海沿岸や樺太などに当時の遺跡が見られる。

欽明朝の粛慎

参考原文・現代語訳

粛慎についての日本での最も古い報告は、欽明天皇5年(544年12月のものである。そこでは、佐渡島に粛慎人が来着したと書かれている。
斉明朝の粛慎討伐

斉明天皇の時代には、さかんに蝦夷を支配下に置こうとした政策が行われた。その一環として、越の国の国守・阿倍臣による数回の蝦夷・粛慎討伐がある。日本書紀には6件の阿倍臣による征討についての記事がある。
斉明天皇4年(658年)4月 - 180艘の船を率いて蝦夷を討伐する

斉明天皇4年(658年)是歳(詳しい月日は不明という意味) - 粛慎討伐とヒグマの献上参考原文・現代語訳

斉明天皇5年(659年)3月 - 180艘の船を率いて蝦夷を討伐する

斉明天皇5年(659年)3月分注 - 粛慎討伐と捕虜献上参考原文・現代語訳

斉明天皇6年(660年)3月 - 粛慎討伐参考原文・現代語訳

斉明天皇6年(660年)5月 - 粛慎の捕虜献上参考原文・現代語訳

『日本書紀』中の粛慎についての記述は内容が酷似しており、例えば、討伐の期間はみな3月から4月になっている。このため、これらの討伐が実際に何回行われたかについては諸説ある。

例えば、本居宣長は、もともと討伐は1回しかなかったとし、4年・5年・6年と3回行ったように書かれているのは、壬申の乱などによる記録の混乱で4年・5年・6年と3種類の伝承ができてしまい、日本書紀の編者がそれら3種の伝承を無批判に取り入れたからだとした。

なお、阿倍臣が粛慎討伐に向かった場所は渡島(わたりしま)と書かれているが、それがどこであるかは定かではない。ただ、ヒグマは本州にはおらず、北海道樺太にしかいない。阿倍臣がヒグマを献上したとの記録があることから、渡島を北海道であるとする説もある。ただし、ヒグマは北半球に広く生息している。
天武・持統朝の粛慎


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