この項目では、1933年から1937年まで刊行された『ぷろふいる』について説明しています。1946年から1948年まで刊行された『ぷろふいる』(『仮面』)については「ぷろふいる (仮面)」をご覧ください。
ぷろふいる
Profile
ジャンル探偵小説専門誌
刊行頻度月刊
発売国 日本
言語日本語
定価20銭(創刊号)
出版社ぷろふいる社
発行人熊谷晃一
『ぷろふいる』は、日本の探偵小説専門誌。1933年に京都で創刊された。1933年5月号から1937年4月号まで、4年間で全48冊刊行。発行はぷろふいる社。
第二次世界大戦以前では最も長く続いた探偵小説専門誌だった[1]。 京都の老舗呉服店の長男で探偵小説愛好家の熊谷晃一
概略
当初は関西の探偵小説誌として出発し、神戸の山本禾太郎、西田政治、九鬼澹(後の九鬼紫郎)、戸田巽、京都の山下利三郎(『ぷろふいる』には山下平八郎名義で登場)らが参加したが、5号からは熊谷晃一の伯父で東京に住んでいた堀場慶三郎を通じて東京の作家にも寄稿を依頼するようになり、最終的には、当時活躍していた探偵作家たちのほとんどが誌面に登場した。1933年に「完全犯罪」で本格的にデビューした小栗虫太郎や、1934年にデビューした木々高太郎にも、いち早く原稿を依頼している。
新人の発掘に積極的で、4年間で40人ほどの新人作家を登場させている。のちに作家として大成した人物は少なかったが、怪奇探偵小説の名手の西尾正、本格推理長編『船富家の惨劇』で知られる蒼井雄、のちに韓国推理文壇の創始者となった金来成らを世に出した。また、すでに『新青年』などでデビューしていた新人の大阪圭吉、戸田巽、酒井嘉七らに活躍の場を与えた。評論では森下雨村の紹介で井上良夫が登場し、英米本格ミステリの研究・紹介を行った。
翻訳に難がある場合もあったが、エラリー・クイーンやドロシー・L・セイヤーズの作品も掲載している。ほかに、夢野久作の猟奇歌や、江戸川乱歩の自伝「彼」などが掲載された。
編集作業は当初は伊東利夫が務めた。また、3号で短編が入選して『ぷろふいる』に登場した左頭弦馬も、その後編集部に顔を出して編集を手伝った。1935年10月号からは寄稿家だった九鬼澹が山本禾太郎の推薦で編集長となり、最終号までの編集を務めた。表紙イラストは、熊谷の友人の画家の加納哲が創刊号から担当したが、のちに漫画家の横山隆一や洋画家の高井貞二にも依頼した。
発刊5号で住所を東京に移したものの、編集部は廃刊直前まで京都にあった[2]。廃刊の理由は、熊谷晃一の事業上の失敗とされる(この年、熊谷は事業の失敗で京都から神戸に転居している)。 ただ、雑誌そのものは『探偵倶楽部』と改題の上、続刊の予定で、そのための広告も出していた。しかし、『探偵倶楽部』というタイトルでは刊行されることはなかった。1983年に行われたインタビューで熊谷晃一はその理由について「そんな俗なんで出すのイヤや言うてやめてしもうた。そんなことまでして売らないかんことないさかいにやめた」と語っている[3]。
また同じインタビューで熊谷晃一は江戸川乱歩から「君ところに小説書いてもええのやけど、[雑誌の水準が高すぎて]むつかしすぎる」と言われたことを明かしている。『新青年』が探偵小説の専門誌ではなく、探偵小説界の動向には関心を示さなかったため、『ぷろふいる』が当時の探偵小説論壇の中心地となっており、江戸川乱歩の言葉はこうした事情を反映したものと受けとることができる。読者投稿コーナーの「談話室」でアマチュア探偵小説マニアが議論に花を咲かせ、また探偵小説芸術論をめぐる甲賀三郎と木々高太郎の論争の舞台ともなった。『ぷろふいる』はそういう探偵小説誌だった。 新人作品の選集が2冊刊行されている。 ぷろふいる社(および、出版のための新会社・末広書房)が刊行した主な単行本。
ぷろふいる社の出版物
新人選集
『新人傑作探偵小説選集』(ぷろふいる社、1935年)
左頭弦馬「踊り子殺しの哀愁」(1933年9月号)
大畠健三郎
西尾正「土蔵」(1935年1月)
蒼井雄「狂燥曲殺人事件」(1934年9月)
若松秀雄「金曜日殺人事件」(1934年2月号)
斗南有吉「爪」(1934年5月号)
山城雨之助「扇遊亭怪死事件」(1934年8月号)
『新作探偵小説選集』(ぷろふいる社、1936年) - 1935年の新人作品の選集
光石介太郎「綺譚六三四一」(1935年2月号)
金来成「楕円形の鏡」(1935年3月号)
星庭俊一「棒紅殺人事件」(1935年6月号)
西嶋亮「秋晴れ」(1935年4月号)
平塚白銀「セントルイス・ブルース」(1935年8月号)
主な単行本
小栗虫太郎 『白蟻』
甲賀三郎 『血液型殺人事件』