ひょうたん島_(徳島県)
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ひょうたん島

ひょうたん島(1974年昭和49年)、一部の町並みは現在と異なる)。国土交通省 国土地理院 地図・空中写真閲覧サービスの空中写真を基に作成
所在地 日本 徳島県徳島市
所在海域新町川助任川
面積1.5 km²
海岸線長5.4 km
最高標高61.7 m
最高峰城山
OpenStreetMap
プロジェクト 地形
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ひょうたん島(ひょうたんじま)は、徳島県徳島市の中心街をなす中州である。
概要

徳島平野東部に位置し、吉野川の分流の新町川助任川福島川に囲まれている。海には面していない。

市の行政上の地区としては内町地区(うちまちちく)と一致する。この地区は島南西部の内町(北は現一番町・南は新内町・西は元町・東は富田橋通り)から名をとっているが、現在では内町地区全体を内町と呼ぶことが多い。
島名の由来

島の形がひょうたんに似ているから

現在の徳島町城内東出来島町境付近の古い地名「瓢箪島(ひょうたんじま)」よりとされる[1]1984年昭和59年)、徳島市主催の「魅力あるまちづくり講演会」で徳島県建築士会青年部が「ひょうたん島ルネッサンス構想」を提言したのが最初とされる。

この島は、とくしま88景に選定された。
地理

最高所の城山標高61.7m)を除くほぼ全域において、標高2m前後の低地がひろがる。かつては島内にも寺島川という河川が流れていたが、鉄道の敷設により姿を消した。

島を縦貫する国道192号や横断する国道11号交通の軸となっており、それらが交わる徳島本町交差点は重要な交通の結節点となっている。また、島の中央部には高速バス特急列車が発着する徳島駅が立地しており、重要な交通の拠点となっている。

島の東側半分には、徳島市中心業務地区が形成されている。徳島本町交差点から元町交差点にかけてはオフィスビルが建ち並び、徳島駅の周囲にはショッピングセンター百貨店が集まっている。島内の商業地(駅前・八百屋町付近)及び住宅地(合庁付近)の公示地価は、いずれも徳島県において最も高い。

徳島中央公園に加え、島を取り囲むように公園が整備されており、そこは様々な用途で市民に広く利用される(以下参照)。
歴史
近世

江戸時代にはこの島は北東部が徳島、南西部が寺島、北西部が出来島という3つの島に分かれていた。徳島・寺島と寺島の間には寺島川が流れ、徳島と出来島の間には瓢箪堀があった。徳島と寺島は徳島城の内廊だった。

出来島はかつては湿地帯で、近世までに埋め立てられた。瓢箪堀はその湿地帯の名残である。元は助任川に通じていたが、江戸時代初期に築堤されて流れが途絶え、葦原となった。瓢箪堀の近辺(現在の徳島町城内東出来島町境付近)縦90×横120歩の武家地を「瓢箪島」と呼んだ。その名の由来は、堀の形が瓢箪形だったとも[2]、堀の中に瓢箪形の小島があったとも[1]言われる。

徳島・寺島・出来島・瓢箪島は城下町の中核をなし、常三島福島住吉島を加えて阿波の七島と呼ばれた。のちのひょうたん島はほぼ全域が武家屋となったが、内町は町屋となった。また南部の、現在の南内町幸町3丁目・中洲町は新町川の河床だった。
近代

明治から段階的に、寺島川と瓢箪堀が埋め立てられ、1つの島となった。

徳島城跡(現 徳島町城内)は大半が徳島中央公園となった。城跡の一部が公園敷地からは除外されたが、大半は公共施設である。徳島城の東の旧徳島町(現在の徳島町とはやや異なる)は、公共施設や住宅地となった。

寺島には徳島駅が開設し、徳島市の玄関口として発展した。出来島は工場町となった。

島の南部の川床は、堆積により干潟となっていたのが埋め立てられ、徳島港が建設された(現在の徳島港は海岸にある)。
商業

内町地区は、新町地区とともに徳島市の中心市街地を構成している。その中心はJR徳島駅前であり、そごう徳島店クレメントプラザなどの大型商業施設が集積し、駅前を中心にして一番町商店街ポッポ街商店街元町商店街といった商店街も伸びいて、徳島県最大の集積地となっている。

1970年代までは、徳島県最大の地場百貨店丸新百貨店ダイエー徳島店、映画館が集まる新町地区のほうが栄えていたが、1983年(昭和58年)にそごうの入った徳島駅前再開発ビルアミコビルがオープンしてからは、内町地区のほうが栄えるようになった。
商業地区としての歴史
近代以前

藩政時代は、阿波藩の御用商人が集まる地区として栄えた。明治に入ると、新町地区のほうが商業の中心として栄えるようになり、相対的に地位が低下した。しかし、1899年明治32年)に徳島駅が開業すると、徳島市の玄関口として栄えるようになり、商店が建ち並んだ。その後、路線バス路線も徳島駅を中心に整備され、内町地区は徳島市の公共交通機関のターミナルとして成長した。
終戦直後?高度経済成長期

1945年(昭和20年)の徳島空襲により、内町地区全域が焼失したが、戦後はいち早く復興し、昭和30年代に入ると徳島名店街や地場百貨店のつぼみや(閉店後は「徳島ビブレ」を経て、複合商業ビルの「ラスタ徳島」となったが、現在は空ビルが解体された)、南海ショッピングセンター(のちにとくしまCITY、現ダイワロイネットホテル徳島駅前)といった大型商業施設が相次いでオープンした。また、国道192号線(通称、国体道路)が整備され、沿道の八百屋町にはオフィスビルも建つようになった。

しかし、当時徳島県最大の繁華街として栄えていた新町地区と比較すると内町地区は規模が小さく、また、徳島駅前や藍場町(いわゆる藍場スラム)には空襲の焼け跡の闇市に由来するバラック街が未だ残り、駅前西地区の広大な部分を内町小学校が占めるなど、県庁所在地の駅前としては見劣りしており、土地利用が有効にできていないことが徳島市や市民の間で指摘されるようになった。

その後、バラック街は昭和40年代取り壊され、1971年(昭和46年)に駅前西側にポッポ街商店街が整備された。(藍場町には藍場浜公園郷土文化会館(現、あわぎんホール)、その地下には市営駐車場が整備された。


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