ひめゆりの塔事件
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ひめゆりの塔事件
場所沖縄県糸満市
標的皇太子明仁親王および皇太子妃美智子
日付1975年昭和50年)7月17日
概要日本の新左翼テロリズム
攻撃手段火炎瓶スパナを投擲
犯人沖縄解放同盟準備会、共産主義者同盟戦旗派各メンバー
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ひめゆりの塔事件(ひめゆりのとうじけん)は、1975年7月17日沖縄県糸満市で発生した、日本の新左翼過激派による当時の皇太子明仁親王および同妃美智子に対するテロ事件。ここでは同日の白銀病院事件も併せて記載する。
概要

皇室としての第二次世界大戦後初の沖縄県訪問を行った皇太子および同妃に対して、新左翼党派のメンバー計4名が以下のテロ事件を起こしたが、皇太子、同妃および関係者に大きな怪我はなかった。

白銀病院事件 - 白銀病院に潜入した沖縄解放同盟準備会(沖解同(準))メンバー2名が、同病院から警備車両にガラス瓶やスパナ、石などを投擲し破損した。

ひめゆりの塔事件 - 洞窟(ひめゆりの壕)に潜伏していた共産主義者同盟戦旗派(西田派)と沖解同(準)のメンバー計2名が、皇太子の足元に向けて火炎瓶を投擲し献花台を炎上させた。

事件背景

沖縄復帰後に開催された沖縄国際海洋博覧会に際して、皇太子および同妃が沖縄県を訪問し、献花のために糸満市にあるひめゆりの塔を訪れることが伝えられた。これは皇族による第二次世界大戦後初めての沖縄訪問だった。戦後まもなく全国各地を回った「戦後巡幸」の際、昭和天皇は「戦争を防止出来ず、国民をこの災禍に陥らしめたのはまことに申し訳ない。この際、位を退くことも1つの責任の果たし方だろうが、私は親しい者を失った人、困っている人の所へ行って慰めてやり、働く人を励ましてやって、1日も早く日本を再興したい。そうすることが新憲法の精神に従った国民と皇室との関係を確立できるのではあるまいか」と、その志を側近に述べている。

「沖縄人自身による沖縄解放」を掲げていた沖縄解放同盟準備会は、1975年初頭には「流血も辞さないたたかいで皇太子上陸を阻止する」と宣言し、「十五年戦争における大日本帝国による侵略植民地主義弾劾」「沖縄戦における日本軍による住民虐殺弾劾」及び「(その最高責任者である)戦争犯罪人・ヒロヒトおよび、その代理人である皇太子を糾弾する」として、1か月間の「皇太子上陸阻止闘争」を展開することを決定した。沖解同(準)は「前段闘争」として、6月18日摩文仁の丘日本軍慰霊塔に「日本軍の残虐行為を許さないぞ」、「皇太子沖縄上陸決死阻止」、「大和人は沖縄から出て行け」、「皇太子帰れ」などとペンキ落書きをした。

沖解同(準)は、最終的に7月10日に「『ひめゆりの壕』に潜伏し皇太子を待ち受け火炎瓶と爆竹を投擲する」という方針を決定し、同派メンバーの知念功と西田戦旗派のメンバーの2人が、「ひめゆりの壕」に11日に潜入した。知念は、沖縄史ととりわけ沖縄戦の記録を読み漁ったあとに、壕に潜入したという。知念は後に、「この『闘争』は、皇太子および同妃の殺傷が目的ではなく、皇太子及び皇族を『裁判闘争』に引き摺り出して『天皇制戦争責任』を追及することが最終目的だった」と主張している。

屋良朝苗沖縄県知事の意向を受けた沖縄県労働組合協議会(県労協)は、幹部三役のみの会議によって「海洋博反対」、「皇太子訪沖反対」については取り組まないことを決定するが、在日米軍基地労働者で構成する全軍労(のちの全駐労)や自治労沖縄などの労働組合によって、海洋博会場付近および那覇市内、糸満市など沖縄南部などでの沖縄各地でのデモや、様々な業種での時限ストライキや抗議職場集会が実行され、延べ数万人が「皇太子訪沖反対」の意思表示を行なった。
警備

7月17日の皇太子到着当時、沖縄県警察本部は他県からの約1,000人の応援部隊を含めて3,700人の警察官による警備体制を敷いていた。


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