ひばりが丘
町丁
座間市立東中学校
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度29分02秒 東経139度25分55秒 / 北緯35.483986度 東経139.431836度 / 35.483986; 139.431836
国 日本
都道府県 神奈川
市町村 座間市
人口情報(2023年(令和5年)8月1日現在[1])
人口15,584 人
世帯数7,276 世帯
面積([2])
1.392624272 km²
人口密度11190.38 人/km²
設置日1977年(昭和52年)11月1日
郵便番号252-0003[3]
市外局番046(厚木MA)[4]
ナンバープレート相模
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ひばりが丘(ひばりがおか)は、神奈川県座間市の町名。現行行政地名はひばりが丘一丁目からひばりが丘五丁目。住居表示実施済み区域[5]。 座間市東部に位置し、大和市と隣接する。 住宅地の地価は、2023年(令和5年)1月1日の公示地価によれば、ひばりが丘一丁目18番13号の地点で16万円/m2となっている[6]。 この地域は、相模が丘・広野台・小松原・東原と一括りに、芝原(しばあら)と呼ばれており[7]、ひばりが丘三丁目・四丁目の旧・大字栗原字東原と大和市・海老名市を境界として、古道である大山道が縦貫している。 太平洋戦争終戦直後の1945年(昭和20年)8月、東京都内、横浜市中心部、横須賀市内から移住してきた住人達が中心となって街づくりを始めた地であり[8][9]、それらの人々は大字栗原字東原(現・二丁目?四丁目全域と五丁目の大部分)と大字座間入谷飛び地(現・一丁目全域と五丁目の残り全域)にまたがり移住してきた。大字小字はまたがっていたが一括りに早速、新しい自治会を結成し名前を決めようと、役員が当時林であった一丁目73番で会議をしている時、ヒバリが多かったことから「雲雀ヶ丘」となり、小学校開設時に小学生にも分かりやすいように平仮名としたもの[10][11]。よって、一丁目73番は「ひばりが丘命名の地」である[12][13]。 移住当初、耕地を開墾、生活するにあたり、平坦であったが段上にある土地であることが災いし水に困り、井戸を掘削するにも苦労した。1953年(昭和28年)、畑地灌漑用水路西幹線[14]が通水し、利用でき耕作も軌道に乗り、おもに陸稲、ムギを栽培した。1955年(昭和30年)、町営水道が完成し、宅地市街地化が進み、座間町の企業誘致により工場が進出してきた[15]。 2023年(令和5年)8月1日現在(座間市発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。 丁目世帯数人口 国勢調査による人口の推移。 人口推移年人口
地理
地価
歴史
1971年(昭和46年)
4月1日 - 高座郡座間町立座間第二小学校より分離し、同校地内仮校舎で高座郡座間町立ひばりが丘小学校開校。
8月31日 - 現在地にひばりが丘小学校の新校舎が落成、移転。
11月1日 - 座間町の市制施行により、ひばりが丘小学校は座間市立ひばりが丘小学校となる。
1972年(昭和47年)4月1日 - 座間市立東中学校開校。
1977年(昭和52年)11月1日 - 当該地域の大字小字を統合し、ひばりが丘1丁目?5丁目を新設[16][17][18](住所の表記は従来からの地番を使用(例・ひばりが丘1丁目5○○○番地の1)。
2002年(平成14年)9月17日 - 住居表示の実施[19][20](例・ひばりが丘一丁目○番1号)。
世帯数と人口
ひばりが丘一丁目1,808世帯3,807人
ひばりが丘二丁目1,527世帯3,373人
ひばりが丘三丁目1,693世帯3,782人
ひばりが丘四丁目459世帯971人
ひばりが丘五丁目1,789世帯3,651人
計7,276世帯15,584人
人口の変遷
1995年(平成7年)[21]13,893
2000年(平成12年)[22]15,167
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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