はわい丸
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はわい丸
基本情報
船種
貨客船
クラスはわい丸級貨客船
船籍大阪港/大阪府
東京港/東京都
所有者大阪商船
南洋海運
運用者大阪商船
南洋海運
 大日本帝国陸軍
建造所川崎重工業神戸造船所
姉妹船War King(第二大福丸)(Furness, Withy & Co. Ltd.)[1]
船級はわい丸級貨客船
信号符字MTQL→JHWD[2]
IMO番号18436(※船舶番号)[2]
建造期間262日
就航期間10,712日
計画数2
建造数2
前級たこま丸級貨客船
次級まにら丸級貨客船
経歴
起工1914年11月15日[2]
進水1915年5月18日[2]
竣工1915年7月27日[2]
最後1944年12月2日被雷沈没
要目
総トン数9,467トン[2]
純トン数5,916トン
載貨重量11,770トン[2]
垂線間長144.78m[2]
型幅18.59m[2]
型深さ14.48m[2]
高さ30.48m(水面からマスト最上端まで)
7.62m(水面からデリックポスト最上端まで)
10.05m(水面から船橋最上端まで)
17.67m(水面から煙突最上端まで)
ボイラー石炭専燃缶(1915年)
重油専燃缶(1925年)
主機関三連成レシプロ機関 2基[2]
推進器2軸
出力8,336 IHP[2]
最大速力16.04ノット[2]
航海速力11.5ノット[2]
航続距離14ノットで8,000海里
旅客定員一等:13名
三等:700名[2]
乗組員48名
まにら丸型は準姉妹船[2]
1941年9月29日徴用。
高さは米海軍識別表[3]より(フィート表記)。
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はわい丸(はわいまる)は、かつて大阪商船・南洋海運が所有・運航していた貨客船太平洋戦争中、陸軍省により徴用され輸送任務中に撃沈された。この項では姉妹船の第二大福丸についても記述する。

文中、トン数表示のみの船舶は大阪商船の船舶である。
船歴
建造の経緯

大阪商船は1909年明治42年)7月3日に開設し、たこま丸型貨客船で運航されていたタコマ線(香港?タコマ間。途中マニラ上海長崎門司神戸四日市横浜ビクトリアシアトルに寄港)の増便を目的として川崎重工業神戸造船所に発注。これを受けて建造されたのが本船である。1914年大正3年)11月15日、造船所番号第374番船として起工[2]1915年(大正4年)5月18日に進水し命名[2]。1915年7月27日に竣工した[2]。船名はハワイから。大阪商船としては初めての9,500総トン級の大型船で、まにら丸型貨客船は準姉妹船である他[1]日本海軍給糧艦間宮ははわい丸の設計を手直しして建造されている。
就航後

竣工した「はわい丸」はさっそくタコマ線に就航。その後、準姉妹船の「まにら丸」(9,519トン)の投入により、タコマ線は使用船6隻、年26航海を行うまでに成長した。1925年(大正14年)3月、前年の「まにら丸」に続いて「はわい丸」も南米航路航路に投入され、それに伴い、重油専燃缶への換装が行われた[4]。2隻に続いて「さんとす丸」級が就航したころのルートは神戸、長崎、香港、サイゴンシンガポールコロンボダーバンポートエリザベスケープタウンリオデジャネイロサントスブエノスアイレス、サントス、リオデジャネイロ、ニューオーリンズガルベストン、クリストバル、ロサンゼルス、横浜、神戸であった(長崎とポートエリザベスは「はわい丸」級のみ寄港)[5]。戦前の南米移民ブームの際にはこの航路を使用して南米に向かった者も多くいた。

ぶゑのすあいれす丸」と「りおでじゃねろ丸」が就航すると「はわい丸」と「まにら丸」はアフリカ東岸航路に移された[6]。1931年に日本郵船が西航南米航路から撤退するとアフリカ東岸航路が南米まで延伸され、「はわい丸」他4隻が就航した[7]
はわい丸コレラ事件

1928年(昭和3年)、航行中の「はわい丸」でコレラが発生した[8]。「はわい丸」は3月17日に神戸を出港し、長崎、香港を経て3月27日にサイゴンに入港した[9]。当時サイゴンではコレラが蔓延しており、その情報は日本政府も航行中の船へと通報していたのだが、「はわい丸」はコレラ蔓延を知ったにも拘らずサイゴンに寄港し、食料や水の補給に加えて客1人を乗船もさせている[10]。3月31日、「はわい丸」はシンガポールに到着[9]。4月1日の出港後すぐ、船内でコレラの集団感染が発生し、「はわい丸」はシンガポールに引き返した[11]。当時の乗客数は772人で、そのうち580人は契約移民であった[9]。患者数は諸説あるが、53人とするのが有力であり、17人が死亡した[11]。患者の中にはサイゴンでの乗船客も含まれる[11]。シンガポールでは消毒や乗員乗客全員に対するワクチン接種と検便が行われ、4月中旬にはコレラの終息を見て5月2日に「はわい丸」は出港した[12]。保菌者およびその家族合わせて15名がシンガポールに残された[12]
陸軍徴用船

1940年(昭和15年)2月、南米航路は東航線と西航線に分割。世界情勢の悪化により同年9月には西航線が、翌1941年(昭和16年)7月には東航線が休止となり、1941年(昭和16年)9月29日、はわい丸は日本陸軍に徴用されて陸軍輸送船となり、陸軍船番号832番が付与された。12月7日1730、はわい丸はぶりすべん丸(大阪商船、5,425トン)、高雄丸(大阪商船、4,282トン)、春幸丸(大同海運、4,027トン)他輸送船2隻でビガン攻略作戦に参加。第9駆逐隊(朝雲夏雲峯雲山雲欠)、第17号掃海艇他掃海艇4隻、第6号10号、11号、12号16号、17号、18号駆潜艇の護衛を受けて馬公を出港。


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