はだしのゲン
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はだしのゲン
ジャンル
原爆平和戦争漫画
漫画
作者中沢啓治
出版社汐文社
集英社
ほるぷ出版社
中央公論新社
掲載誌週刊少年ジャンプ
市民
文化評論
教育評論
発表期間1973年 - 1987年
巻数汐文社版全10巻
汐文社愛蔵版全10巻
ほるぷ版全10巻
中公愛蔵版全3巻
中公文庫コミック版全7巻
英語版全10巻 他
テンプレート - ノート
プロジェクト漫画
ポータル漫画

『はだしのゲン』は、中沢啓治による、日本漫画作品。中沢自身の原爆による被爆体験を基にした自伝的な内容である。同漫画を原作として実写映画アニメ映画テレビドラマも製作された。戦中戦後の激動の時代を必死に生き抜こうとする主人公中岡ゲンの姿が描かれている。 当初は「週刊少年ジャンプ」で約1半年連載された[1]。その後は1975年から連載再開した。連載先が変わっていき、革新市民団体雑誌の「市民」(1975?76年)、日本共産党中央委員会の「文化評論」(1977?80年)を経て、1982から87年まで日教組の機関誌「教育評論[2]」に連載された[1][3][4]
概要原爆ドーム(2012年11月撮影)

自伝的な作品で、作中のエピソードの多くも中沢が実際に体験したことである[注釈 1]。作者は当作を反戦漫画として描きたかったのではなく、それ以上に「踏まれても踏まれても逞しい芽を出す麦になれ」という「生きること」への肯定の意味を込めて「人間愛」を最大のテーマとして描いていた[5]

母親を火葬した際に骨が残らなかった、という作中にもあるエピソードが、中沢に広島原爆の被爆を題材とした漫画を描かせるきっかけとなった。

発表分の末期は終戦から何年も過ぎた戦後の内容となっており、昭和天皇に対する批判やアメリカ軍およびアメリカ合衆国に対する批判、警察予備隊(後の陸上自衛隊)発足に対する批判する内容も含んでいる。ただし、その時期の話にも原爆の傷痕は根強く描かれている。

時代考証の間違いや左派的な主張をはじめ、作品の内容、表現などについて様々な意見があるが、作者の中沢の実体験に基づく原爆の惨禍や当時の時代背景・世相風俗を表現していながら、エンターテインメントとしても読ませる作品として国内外での評価は高く、映画・ドラマ・アニメ・ミュージカル絵本講談化もされている。2010年6月調査のgooランキング「読んでおきたい日本史モノマンガランキング」の第1位に選ばれた[6]

2007年5月30日からウィーンで開催された核拡散防止条約(NPT)運用検討会議の第1回準備委員会で、日本政府代表団は、本作の英訳版を加盟国に配布することになった。外務省英語版30冊を出版社から譲り受け、今後も「漫画外交」を活発に展開させる予定と報じられた[7]

2018年9月時点で累計発行部数は1000万部を突破している[8]
作品史
『週刊少年ジャンプ』

1972年10月号に『別冊少年ジャンプ』(集英社)の漫画家自伝企画の第2弾として掲載された、中沢の自伝的漫画『おれは見た[9]を基に、脚色を交えて『週刊少年ジャンプ』(集英社)1973年25号から連載が始まった。中沢は自分の思いを完全に伝えるため、妻を除いて専属のアシスタントを一切使わずに描き上げた。

『週刊少年ジャンプ』は当時既にアンケート至上主義、すなわち読者アンケートの結果による人気番付を重視しており、アンケートによる人気番付が低い状態が続けば即打ち切りのスタイルを取っていた。人気作品が連載されている中で『はだしのゲン』は一定の人気は保っていたものの、当時の子どもへの受けはあまりよいものとは言えなかった。しかし当時のジャンプ編集長であった長野規は自らアンケート至上主義を打ち立てながらも中沢が望めば紙面を割くなどして全面的にバックアップし、1年以上の連載を続けることができていた。しかし、折しもオイルショックの紙不足によって『ジャンプ』の全体のページ数が減らされ、連載後期はたびたび休載を余儀なくされる。その後、それまで『ゲン』のサポートを続けてきた長野の栄転により、1974年39号にて連載は終了。この連載終了について、担当編集者だった山路則隆は「中沢は連載当初に予定していた所期の目的を達成できたため、一度連載を終了させた」と証言しており、中沢は『ゲン』の後はまったく路線の違うエンターテインメント作品の連載を希望していたという[10]。中沢自身は前記のページ数減少により、描きたいことが十分描けなくなったことを連載終了の要因として挙げている[11]。そのため、打ち切りではないと証言されている[1]

巻頭カラーは第1話のみで、アンケートで選ばれた上位10人が読み切り掲載権を獲得する1974年度のジャンプ愛読者賞では20人中13位と選に漏れた。

当初、集英社は単行本の発刊を見送った。この背景について、前記の山路則隆はその当時は連載漫画はよほど人気がなければ単行本化する状況にはなく、本作は連載時の人気が非常に高いとはいえなかった(ので単行本化の対象とならなかった)と述べている[12]。中沢自身は(伝聞として)単行本化の話はあったが、上層部が「連載ならよいが単行本になると社名に傷がつく」という理由で出なかったと記している[11]。また、『週刊少年ジャンプ』では、1970年に連載した『オキナワ』が単行本発売の予告まで出しながら、土壇場で発売中止になっていた。

作品として続く可能性が絶たれたかに見えた本作に、朝日新聞記者だった横田喬が「原爆について知りたい」と興味を示して中沢の自宅を訪れ、生原稿にすべて目を通した上で、記事として取り上げることになった[13]。だが、本がなければ新聞に載せても読まれないという理由から、横田が探し出して紹介した汐文社による単行本の刊行が決まる[13]。中沢自身は汐文社は漫画評論家の石子順からの紹介だったと記している[14]。また、汐文社の初代担当編集者だった堀尾眞誠は、『赤旗』日曜版連載だった『チンチン電車の歌』の単行本化を考えていたが、1975年1月に中沢宅を訪れた際、宙に浮いていた『はだしのゲン』の刊行を打診されたと回顧している[15]

1975年3月18日付の朝日新聞夕刊社会面に「原爆劇画、単行本に」と題した横田の記事が掲載され、2カ月後の5月に汐文社版全4巻の単行本が刊行された[13]。この記事と単行本により、本作は大きく注目を集めたが、発売後は漫画専門の出版社ではなかったこともあり、販路の確保に苦戦。8月末の時点では返品の山となっていた。しかし、本作に感銘を受けた保守系国会議員有志の働きかけもあり、フジテレビ系のワイドショー『3時のあなた』で紹介されたことから、一転、売れ始めた[16]。当時「漫画は低俗なもの」とされていたにもかかわらず大江健三郎の激賞を浴び[17]、その後は『ジャンプ』の主な読者層であった少年のみならず、大人の間においても浸透し、ベストセラーとなる。また、これも横田の紹介により、『市民』誌にて続編が連載されることとなる[13]

なお、ジャンプ掲載分では、1974年3月25日号から同年4月15日号まで「麦っ子たち はだしのゲン戦後編」(むぎっこたち はだしのゲンせんごへん)のタイトルで掲載されていた[18]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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