なみき たかし(本名:並木 孝、1952年 - )は、日本のアニメーション研究家、東京アニメーション同好会(アニドウ)4代目会長[1]、有限会社オープロダクション代表取締役、日本アニメーション文化財団代表理事。
アニメーション事業者協会理事、日本アニメーター・演出協会(JAniCA)発起人、日本アニメーション協会会員(初代事務局長)、日本アニメーション学会会員。 1952年、埼玉県浦和市(現:さいたま市)で生まれる[2]。 日本大学鶴ヶ丘高等学校美術科在学中の1968年東京新宿の漫画喫茶コボタンで、アニメーターの集まりであるアニドウ(東京アニメーション同好会) に参加[2]。漫画家でフィルム・コレクターの杉本五郎や各国大使館のフィルム提供による上映会で世界のアニメーションを知り16歳でアニメーション界へ進路を定める。 アニドウの活動の傍ら、1972年には東映動画スタジオで『ながぐつ三銃士』の撮影助手を経験後、タツノコプロダクション、トップクラフトなどを転々とし、1973年から作画会社オープロダクションに入社し、アニメーターとして小松原一男、村田耕一に師事する。 1974年、アニドウ4代目会長となり上映活動を毎月のように開催する。また個人作家が出てきたことを捉え、自主作品上映会プライベート・アニメーション・フェスティバル(PAF)を全国規模で約10年間開催。 1975年、人形アニメーション作家川本喜八郎の誘いで、フランスアヌシー国際アニメーション映画祭を訪れ、真のアニメーションの魅力に開眼、以後チェコ、ハンガリー、ポルトガル、スペイン、アメリカ、イギリス、アイルランド、カナダ、ブラジル等世界各国の映画祭を訪れ交流を広げる。 前述のアヌシーで見た雑誌「ファンタスマゴリー」に刺激され、日本初のアニメーション専門雑誌「ファントーシュ」を創刊する[3][4]。創刊後、スタッフ内で商業路線と芸術路線の対立が起きたため、あくまでも芸術と商業の半々の路線をとるなみきは「ファントーシュ」第1号ののち降板し、アニドウの会報FILM1/24を本格的な研究誌に育てる[5]。無名であった宮崎駿の才をいち早く讃えて「別冊:未来少年コナン(1979年)」(通称:黒本)を編集するなど同人誌から本格的な出版へ移行して行った。評論も「スターログ」「奇想天外」などに散発的に発表。 1978年、久里洋二、川本喜八郎、岡本忠成らと日本アニメーション協会を設立し、事務局長に就任。手塚治虫を会長に頂き事務局をアニドウ内に設立し、自主作品やCMなどを制作するアニメーション作家の団結、アニメーターの地位向上を目指した。 1982年、一冊だけのマンガ雑誌『月刊ベティ』(創廃刊号)出版[6]。アニメーターと漫画家が融合させた試みが評価を得るが、予定通り一冊で終了。 1983年、オープロダクションより独立するも「セロ弾きのゴーシュ」のDVD制作などで引き続き業務提携関係をとる。 1984年、有限会社ぱるぷを設立。後に有限会社アニドウ・フィルムと商号を改める。同社でふくやまけいこ「何がジョーンに起こったか」(1984年)、吾妻ひでお「ぱるぷちゃんの大冒険」(1985年)、「川本喜八郎:三国志百態」(1984年)、「もりやすじ画集」(1993年)「小松原一男アニメーション画集」(2002年)、「椋尾篁アニメーション美術画集」(2004年)、「小田部羊一アニメーション画集」(2008年)などを刊行し、アニメーション専門出版社として定評を得る。 1986年、レーザー・ディスクの発売にあわせて、「アニメーション・アニメーション・シリーズ」を企画、シリーズ構成し第一弾として「話の話/ユーリ・ノルシュテイン」および「真夏の夜の夢/イジィ・トルンカ」などをシリーズ構成した。 1987年、映画輸入業務をはじめ、自らチェコに出向いて獲得した長編「チェコの古代伝説」を初めて日本で公開し、続いて各国の短編を配給する。1987年、広島国際アニメーションフェスティバル国際選考委員として第一次選考を務め、映画祭を充実させた。そして同年、フレデリック・バック、ユーリ・ノルシュテインらをゲストにフェスティバル「TOKYO'87」を開催し、「木を植えた男」などを広く紹介する。 1998年、アニメーション短編「この星の上に」(監督片渕須直/アニメーション南家こうじ)をプロデュース(神奈川県立地球市民かながわプラザで公開中)。またアニメーション・ミュージアムの開設計画を開始。詳細は、アニメーション・ミュージアム。 1999年、仏アヌシー国際アニメーション映画祭で国際審査員として招聘され、同映画祭でアニドウの資料を使って「日本の漫画映画」展を開催する。 2004年、東京都現代美術館企画展「日本漫画映画の全貌」構成・プロデュース。「にほんまんがえいがはったつし」を辻繁人との共同監督により脚本・監督。「くもとちゅうりっぷ?政岡憲三作品集」などのDVD、CD-ROM、ビデオ映像の演出、1990年にパイオニアLDCから発売されたDVD「セロ弾きのゴーシュ」の監修・特典映像演出(2006年にはスタジオジブリより再発売)、2006年からは自社の単行本「世界アニメーション映画史」のDVD版(第1集?第6集)を基に公共図書館などのために企画・制作(発売は日本コロムビア)。 2006年12月、オープロダクション社長の村田耕一の逝去をうけて、同社に復帰し、代表取締役に就任。 2012年6月、アニメーション文化の保存と交流と継承を趣旨とした[7]一般財団法人日本アニメーション文化財団を設立[8]。代表理事に就任した。理事は、小田部羊一、古川タク、相磯嘉雄
経歴
アニメーターとして勤務して10年後、1982年にオープロダクションが制作した「セロ弾きのゴーシュ」の広報・宣伝業務をまかされ、公開試写会に無名だったユーリ・ノルシュテイン監督の「霧につつまれたハリネズミ」を併映作品に選定。同作品の配給(16mm販売・上映)も手がける。
これまでにアニメーターを対象とした上映会や講演会などを主催した50年におよぶその活動は500回以上と言われる。
近年はジャズ・コンサートなど音楽関係のイベントも多く、また、「葬儀」「偲ぶ会」などの責任者を多くつとめ、これまでにもりやすじ、小松原一男、村田耕一、飯田馬之介、金田伊功、川本喜八郎、石黒昇、片山雅博らの追悼の会を主宰した。高畑勲については、スタジオジブリが開いた「お別れの会」とは別に「偲ぶ会」をアニドウで開催している[11]。
2014年にはTV「開運!なんでも鑑定団」にアニメーション資料鑑定士として出演、政岡憲三の原画について驚愕の値付けを行う。
2020年にはこれまでの活動を認められ、第23回文化庁メディア芸術祭功労賞を受賞した。 @media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}アニメーション映画『やぶにらみの暴君(王と鳥)』の登場人物「盲目のオルガン弾き」に酷似しているといわれ、本人は自分がモデルだと言い放っている。1985年に来日した監督のポール・グリモーは、なみきとの面会時、この宣言に苦笑いしつつ、「そのとおり、君がモデルだ」と認定したとされるが、なみきは公開年の1952年生まれである。
人物