なぜ私は私なのか
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「なぜ私は私なのか」(なぜわたしはわたしなのか、英:Why am I me ?)は哲学の一分野である形而上学、または心の哲学の領域で議論される問題のひとつ。この問題は様々な形で定式化されるが、最も一般的には次のような形で表される問題である。

世界中に今現在、沢山の人がいる、また今までに数多くの人が生まれてきて、これからも多数の人が生まれてきて死んでいくだろう。しかしそれにも拘らず「なぜは他の誰かではなく、この人物なのか?」(Why am I me, rather than someone else?)

この問いには色々な名称がある。たとえば「私の問題(わたくしのもんだい)」、これは日本の哲学者永井均が使用する山括弧付きの〈私〉という表記法を使って「〈私〉の問題(やまかっこわたくしやまかっことじの-)」と表記されることもある。またオーストラリアの哲学者デイヴィッド・チャーマーズが提出した「意識の難問(The Hard Problem of Consciousness)」という概念と対比させて「意識の超難問(The Harder Problem of Consciousness)」[1][2]と言われることもある。また、問いの内容が「なぜ今、ここなのか?」というものであることから、「今・ここの問い(いま・ここのとい)」と言われることもある。

日本のいくらかの心理学者たちは、この問いを心理学的な観点から研究している。といっても哲学者たちがしているように思索を通して問いを論じている、というわけではなく、この問いを発する人間の心理状態について、アンケートや聞き取り調査などを通じて統計的・科学的に調査・分析する、という形で研究を行っている。こうした心理学的な研究の文脈の中においては、「なぜ私は私か?」といった問いを発する心理状態・経験のことは「自我体験(Ego experience)」と呼ばれている[3][4]
概要これはあなたとあなたの友人4人が、一緒に食事をしている場面を抽象化した図である。この図ではすべての人が同じ○で描かれている。(下図に続く…)しかし実際のところ、上の図のようではなく、事態はこの図のように描くのが適切なものとなっている。つまり、五つの体の中で、ひとつの体(●)だけが、特殊なあり方をしている。すなわち、その体についている眼球だけを通して世界が見えている(他の眼球を通しては見えない)。その体だけがつねられると痛い(他の体はつねられても痛くない)。その体だけが動かそうとして動かせる(他の体は動かせない)。(下図に続く…)さらに事態は、この図のように描くのがより適切なものとなっている。つまり世界はある一つの体に中心化され、そこから開けている。すなわち他のどの体(○)が消滅しても、それは「世界」(図中吹き出し)内部の一つの出来事でしかない。しかしあるひとつの体(●)の消滅だけは、「世界」内の出来事でなく、「世界」の消滅である。

なぜ事態は一番上の図のようではなく、この図のように、ある特定の地点へと中心化された特殊なあり方を<現に>しているのか?

この問題において問われていることは、あまりにも当たり前のことである。あまりにも当たり前すぎて、日常の社会生活においては、このことは全く問われることなくすまされている。とはいえこれは哲学者だけが問うてきた問いではなく、むしろ普通の人がそれぞれの人生の中でふと出会う問いのひとつである。すべての人がこの問いと出会うわけではないが、渡辺が日本の全国の大学生を対象として調査した結果では、およそ10人に一人に近い高率で、この種の問いが発生していたという。また、こうした問いを初めて体験する時期については、天谷の調査によれば、小学校後半から中学一年生を中心とした時期が多いと言う[5]
歴史

17世紀のフランスの哲学者ブレーズ・パスカル1623年 - 1662年)は、次のような記述を残している。私は、私を閉じ込めている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの広大な広がりの中の一隅につながれているのを見るが、なぜほかの処ではなく、この処に置かれているか、また私が生きるべき与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠の中のほかの点でもなく、この点に割り当てられたのであるかということを知らない。私はあらゆる方面に無限しか見ない。…私の知っていることのすべては、私がやがて死ななければならないということであり、しかもこのどうしても避けることのできない死こそ、私の最も知らないことなのである。 ? ブレーズ・パスカル (1670年) 『パンセ』、前田陽一

パスカルはこうして問いを発しはしたが、この問いに特に答えようとはしなかった。

18世紀のスコットランドの哲学者トマス・リード1710年 - 1796年)が当時の高名な裁判官ケイムズ卿(Henry Home, Lord Kames)に宛てた手紙に次のような文章がある。ケイムズ卿のご意見をお聞かせください。私の脳がその本来の構造を失い、その何百年か後にその同じ素材で同じ知的なものが制作された場合、その存在は私と言ってよいのでしょうか、またもし私の脳とまるで同じものが二つ,三つと作られた場合、そのすべてが私なのでしょうか、つまりそれらすべては一つの同一の知的存在なのでしょうか。 ? トマス・リードからケイムズ卿への手紙(1775年

ここでトマス・リードが示したような、や身体の複製または再構成を伴うような思考実験というのは、20世紀になって以降も、様々なバリエーションをもって哲学者たちによって論じられている。有名なものとしてたとえばデレク・パーフィットによる遠隔輸送機の思考実験などがある。

20世紀初頭、オーストリア出身の理論物理学者エルヴィン・シュレディンガー1887年-1961年)は次のような形でこの問題を記した。アルプスの山岳地帯における、とある道端のベンチに君が座っていると仮定しよう。…

君が見ているものはすべて-われわれの通常のものの見方によれば─君が存在する以前から、少しの変化はあったものの、幾千年もの間ずっと変わることなくそこにあった。しばらくのちに─それはそう長い間ではない─君はもはや存在しなくなるであろう。それでもその林や岩や青空は、君がいなくなったのちも、幾千年も変わることなくそこに存在し続けるであろう。
かくも突然に無から君を呼び覚まし、君にはなんの関係もないこの光景を、ほんのしばらくの間君に楽しむようにさせたものは、いったいなんなのであろうか。考えてみれば、君の存在にかかわる状況はすべて、およそ岩の存在ほどにも古いものである。幾千年もの間 男たちは奮闘し、傷つき、子をもうけ、はぐくんできた。そして女たちは苦痛に耐えて子を産んできた。おそらく百年まえにも誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちを心に秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。君と同様に彼もまた父から生まれ、母から産まれた。彼もまた君と同じ苦痛と束の間の喜びとを感じた。はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのだろうか。彼は君自身、すなわち君の自我ではなかったのか。…はたしてこの「誰か他の者」とは、明瞭な科学的意味をもったものなのであろうか。…なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。 ? エルヴィン・シュレディンガー (1925年執筆/1961年出版)「道を求めて」 中村量空ら [訳][6]

シュレディンガーはこの問題について「…これまでインドのサーンキヤ哲学においてのみ重要視されてきたと思われる…」[7]と記しているが、実際西洋圏ではこの問いはさほど活発に問われていない。西洋哲学、現代の分析哲学の流れの中では、似ているが若干違った形の問い、人格の同一性(Personal identity: 異なる時間的(空間的)位置にある人間が、同じ個人であると言えるための条件というのは何か、という形の問い)が、本稿の問いを含む周辺の様々なトピックを代表する一つのキーワードとなっている。そしてその点を中心とする議論の中で本稿の問いへの言及が時にあるといった形の扱いが主となっている。哲学者トマス・ネーゲル。本稿の問いを議論してきた哲学者として、英語圏で最も代表的な人物。

20世紀以降において、英語圏でこの問題を最も積極的に議論してきた哲学者はユーゴスラビア出身のアメリカの哲学者トマス・ネーゲルである。ネーゲルは一人称的な世界の眺め、つまり自分が体験している主観的な今・ここからの眺めと、特定の中心を持たない無中心の客観的な世界の記述、この二つの対比を通じて、問題を語った。トマス・ネーゲルもふくんだ、すべての人がいる世界を、隅からすみまで、特定の視点にたたずに描ききったとしよう。そのとき、一方で、何かが描かれていない、何かどうしても不可欠なものがまだ明記されていない、すなわち、そのなかのだれがわたしなのかということが抜けているように思える。しかし、他方では、無中心の世界に、そのようなさらなる事実をいれる余地があるようには思えない。つまり、どの視点からでもない世界は完全で、そのような追加を受け入れられないと思われるのだ。…特定の一人物、特定の一個人、すなわち、ある客観的に無中心な世界のなかの多くの人物のうちの一人にすぎないトマス・ネーゲルが、いかにしてわたしであるということが可能なのか。

…わたしがトマス・ネーゲルや、他の客観的に特定できる人物に対して、もつかもしれないどんな関係も、偶然で恣意的なものにすぎないと思われる。 ? トマス・ネーゲル1986年)『どこでもないところからの眺め』 中村昇ら訳[8]

客観的な世界記述のなかで、今体験している主観がなぜこの人物から開けているのか、つまりわたしがなぜこの人物なのか、という点について必然性がなく偶然的に思える、とした。

ネーゲルは、こうした問いを発するその基本的な動機である「驚き」について、次のように語った。無中心の宇宙が、その限りない全時空のなかで、よりによってわたしを生みだしたこと、しかもトマス・ネーゲルを生みだすことによってわたしを生みだしたことを信じるのは奇想天外に思える。長いあいだ、わたしというものはなかった。しかし、ある時ある場所で特定の物理的有機体が形成され、突如、わたしというものが、この有機体が生きながらえるかぎり、いる。秩序ある宇宙の客観的な流れにあっては、主観的には(わたしにとっては!)驚くべきこの出来事も、ほとんどさざ波すらたてはしない。一つのの一成員の実在が、こんな注目すべき結果を、どのようにしてもちうるのだろうか。

…わたしであるという唯一無二の特性をもつものを、宇宙がふくむようになったということへの驚きは、かなり原始的な感情なのである。 ? トマス・ネーゲル1986年)『どこでもないところからの眺め』 中村昇ら訳[9]


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