なぜ何もないのではなく、何かがあるのか
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「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」(なぜなにもないのではなく、なにかがあるのか、: Why is there something rather than nothing?)[注釈 1]は、哲学の一分野である形而上学の領域で議論される有名な問題の一つ。神学宗教哲学、また宇宙論の領域などでも議論される。なぜ「」ではなく、「何かが存在する」のか、その理由、根拠を問う問題。別の形として、

「なぜ宇宙(または世界)があるのか?(Why is there a universe(world)?)」

「なぜ無ではないのか?(Why not nothing?)」

「なぜそもそも何かが存在するのか?(Why there is anything at all?)」

などと問われる場合もある[注釈 2]

物事の根拠を「なぜ」と繰り返し問い続けることでやがて現れる問いであることから「究極のなぜの問い(The Ultimate Why Question)」、またはより簡潔に「究極の問い」とも呼ばれる[1]。解答することが著しく困難であることから「存在の謎」(The riddle of existence)とも言われる[2]存在に関する問いであることから「存在への問い(The question of being)」とも言う。哲学者たちはこの問いを、あらゆる問いの中でもっとも根源的な問い・第一の問いであるとしばしば言う。同時に混乱を呼ぶ悪名高き問い、解答不可能な奇問、愚かな問い、問うてはいけない問い、また問うことが危険な問いである[3][4]、などとも言われる。

存在論のテーマは突き詰めると「何が在るのか」と「なぜ在るのか」の二つの問いに収束していくとも言われるが、この問いは後者の「なぜ在るのか」にあたる問いである[5]。”何が”在るのかに関しては、現代の科学である程度答えを出すことができる。

よって”全ての(発生する)命題の起源は、総じてこの謎に帰結する”とも言われる。
概要

この問いの前提である「何かがある」ことを否定することで問いから逃れることはおよそ困難である。たとえば実在するものはすべて意識的なものだけであるとする観念論的な立場や、または世界は私の見ている夢のようなものであるとする独我論的な立場などを取ってみても、その意識にあたる「何か」があることは依然として認めざるを得ない。映画「マトリックス」のように自分は水槽の中の脳である、とか、またこの世界の全ては未来のスーパーコンピュータの中で行われているシミュレーション結果に過ぎないというシミュレーション仮説のような極端な考え方をしてみても、そこには水槽や何らかの計算機が在る。仮にそうしたものの存在をすべて否定してみたとしても、ある種のシミュレーション結果だけはどうしても残る。

こうして「何があるのか」「どのようにあるのか」という点については色々な答え方が可能であるが、「まったく何もない」と主張してこの問いを却下する行為は矛盾を来すため不可能である。

次に、物理学の領域ではビッグバンにより宇宙が始まったという説明がなされることがあるが、こうした説明もまた答えとはならない。なぜなら問いの形が「なぜ何もなかったのでなく、ビッグバンがあったのか」に置き換わるだけだからである。ビッグバンが真空量子揺らぎから発生したといった説明もまた同様である。「なぜ何もなかったのではなく、量子力学の法則にしたがって揺らぐような真空があったのか」、もしくは「なぜ量子力学の法則などという自然法則があったのか」こうした形に問いが置き換わるだけである。同じように何か超越的な存在、たとえば神様を持ち出し、それが世界を作った、と説明しても話は同じである。「なぜ何もなかったのではなく、神様がいたのか」、こう問いが置き換わる。こうした例を見てわかるように、この問いは存在の根拠についてより基盤的なレベルの原理でそれを説明してみても、または因果連鎖を過去に遡ることによって答えようとしてみても、もっと基盤的な何かへ、もっと基盤的な何かへ、またはもっと過去へ、もっと過去へ、無限後退が生じるだけで、そこから答えは得られることはないだろうと考えられている。

時間の始まりの問題を避けるために永続する宇宙、永遠の時間を想定してみても、解決は得られない。「なぜ何もないのではなく、永遠に続く宇宙があるのか」、こうした形に問いが置き換わるだけで終わる。

この問いは歴史学考古学のように過去の歴史や経緯を問う問題ではなく、あくまで「なぜ何かがあるのか」を問う問題である。またしばしば同時に扱われる関連した問い「なぜ世界はこのようになっているのか」「なぜこの物理法則で世界が動いているのか」というこの世界のあり方の根拠を問う問題とも区別される。後者の問いは”宇宙の微調整問題”と関連する。
歴史
ライプニッツによる定式化ゴットフリート・ライプニッツ1646年 - 1716年

この問題を現在 議論されている形で初めて明確に定式化したのは、17世紀のドイツの哲学者ゴットフリート・ライプニッツ1646年 - 1716年)である。ライプニッツは1697年の著作「事物の根本的起原」および1714年の著作「理性に基づく自然と恩寵の原理」で、存在の根拠を探る問題としてこの問いを定式化した。現に存在するものの十分な理由は個々のもののうちにも、ものの全集合のうちにも、事物の系列のうちにも見出されえない。幾何学の原理の書物が永遠なものであって、その一部分は他から書きとられているものと想定してみよう。そのさい、たとえ現在の書物の(実在している)理由を、元になっている本から説明することができるとしても、何冊書物をさかのぼってみても、十分な理由にいたりえないことは明らかである。そのわけは、こういう書物がなぜずっと以前から実在しているか、いったいなぜ書物が実在しているか、またこういうふうに書いてあるのはなぜか、という疑問がいつも残るからである。

書物について真実であったこのことが、世界のさまざまな状態についても言える。なぜなら、次の状態が先立つ状態からなんらかの仕方で [たとえある変化法則によってであろうとも] 表されるからである。こうしてみれば、先立つ状態へどのようにさかのぼってみても、世界がなぜ(実在しないよりも)むしろ実在するか、またなぜこのようになっているかという、十分な理由を諸状態のうちに見いだすことはないであろう。だからあなたは、世界が永遠であると仮定してみても、諸状態の継続しか考えない場合には、どの状態のうちにも、十分な理由を見いだすことはないであろう。いやどんな状態をとりだしても、その理由に達することはないであろう。そこで理由は、それとは別のところに問われなければならないことになる。 ? ゴットフリート・ライプニッツ (1697年) 「事物の根本的起原」、清水富雄訳[6] (強調引用者)自然学者として論じるのではなく、形而上学者として論じると、一般にはあまり用いられていない大原理を使うことになる。その原理とは「何事も十分な理由なしには起こらない」、言い換えると「どんなことでもそれが起こったならば、十分ものを知っている人にはなぜそれがこうなっていて別様にならないのかを決定するための十分な理由を示すことが必ずできる」というものである[注釈 3]。この原理を認めた上で、当然提出される第一の質問は「なぜ無ではなく、何かがあるのか」というものであろう。実際、何もなかった方が、なにかあるよりも簡単で容易であると言える。次に、事物が存在しなければならないということを認めた上で、「なぜ事物はこういうふうに実在しなければならないのか、別様であってはいけないのか」ということの理由を示すことができなければならない。 ? ゴットフリート・ライプニッツ (1714年) 「理性に基づく自然と恩寵の原理」、山内志朗訳[7] (強調引用者)
ライプニッツによる神学的解答

ライプニッツはここで二つの問いを立てている。ひとつが「なぜ世界が存在するのか」という問いで、もうひとつが「なぜ世界はこうなっているのか」という問いである。前者に対し「あらゆることに原因がある(充足理由律)。よって世界が存在することにも原因がある。それは普通の物事ではありえない。よって原因としての神が存在する」という神の宇宙論的証明と呼ばれる形の議論を行う。しかしこれだけであると「神様の原因は何か」という無限後退に陥るため、これに加えて神の存在論的証明と呼ばれる「神の定義」から「神の実在」を導くという形の論証を行う。これは次のような論証である。まず前提として「神はあらゆる側面について最上級の性質を持つ」ということ、つまり神は完璧である、ということを置く。そしてそこから次のように推論する。

神の能力について考えると、神は能力に関して、前提より最上級の性質を持つ。ある程度の能力があるというレベルの話ではなく、何でもできる、つまり全能(Omnipotent)である。

次に神の知識について考えると、神は知識に関して、前提より最上級の性質を持つ。ある程度の知識があるというレベルの話ではなく、何でも知っている、つまり全知(Omniscience)である。

次に神の道徳性について考えると、神は道徳性に関して、前提より最上級の性質を持つ。それなりに良い人だ、というレベルの話ではなく、この上なき善、つまり完全なる善(Omnibenevolent)である。

次に神の存在について考える。神は存在に関して、前提より最上級の性質を持つ。たまたま偶然に存在しているというレベルの話ではなく、何があっても必ず存在する、つまり神は必然的存在者(Necessary existence)である。

こうして神は必然的に存在するとした。そしてその神様が世界を作ったとすることで「なぜ世界が存在するのか」という問いへの解答とした。


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