どおくまん
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どおくまん
本名鈴木 和明
別名義どく・まん
生誕 (1950-01-01)
1950年1月1日(73歳)
大阪府大阪市東淀川区
国籍 日本
職業漫画家
活動期間1960年代 -
ジャンルギャグ漫画、青春漫画
代表作『暴力大将』
嗚呼!!花の応援団
熱笑!! 花沢高校
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どおくまん(1950年1月1日[1] - )は、日本漫画家。本名:鈴木和明。大阪市東淀川区出身。1960年代から活動している。漫画執筆にあたって同じ東淀川区出身の4人組の共同ペンネームとして「どおくまんプロ」(略称:どプロ)も名乗る。

当初、ペンネームを独漫としており、「孤独な漫画家」の意を込めていた。その後、独りでの漫画製作は厳しいと、実弟の「太地大介(本名・鈴木信治)」、龍谷大学で知り合った「小池たかし(本名・小池隆)」、太地の友人であった「みわみわ(本名・宮勝彦)」に声を掛けた[2][3]。この時にペンネームを漢字の独漫から、大阪の「お」を入れ、ひらがなにしたどおくまんとし、4人組の名前として「独立大阪漫人集団」の略からどおくまんプロとした[4][5]。どおくまんプロは大阪府吹田市に活動拠点を置いている。

「どおくまん」が複数人による合作ペンネームであるとの勘違いも多いが、「どおくまん」は飽くまで鈴木本人だけである[4]
経歴

幼い頃は普通に漫画、貸本漫画を読んでいた。特にさいとう・たかをのヒット作『台風五郎』を気に入るが、特に漫画家を志すようなことはなく、成長するにつれ漫画とは離れてスポーツ一辺倒の高校時代を過ごす[4]。大学時代になり、つげ義春みやわき心太郎山上たつひこらの漫画を読むようになり衝撃を受けるが、あくまでも読者、ファンとしてであり、漫画家を志すことはなかった[4]

転機は、『サンデー毎日』で大賞賞金1000万円の漫画賞を開催していることを知った1968年である。賞金目当てに発奮し、漫画の描き方もわからなかったが、画用紙に墨汁と筆で処女作『人形の疑惑』というサスペンス漫画を執筆し応募する[4]。3次選考まで通過し、ベスト20には残るものの、大賞は逃す(ただし、大賞そのものが該当無しであった)[4]。その後、「ちゃんとやれば、もうちょっと行けるんじゃないかな」と思い立ち大学の漫研へ行き、そこで小池と出会う[6]。2作目を大手出版社の少年漫画誌の懸賞漫画に投稿し、これが佳作を受賞。本誌にも掲載され賞金も獲得する[4]。どおくまんはここから本格的に漫画家を目指すことになる。

しかしながら、執筆した10作品、約300ページの原稿をトランクに詰め込んで上京し、大手出版社の編集に見せた際にはほとんど相手にされなかった。どおくまんは、その足で、創刊したばかりで新人を多く起用しているという集英社の『少年ジャンプ』編集部へ向かう。この時に『花田秀治郎』が編集の目に留まり、『別冊少年ジャンプ』での掲載がその場で決まった[4]。『花田秀次郎くんシリーズ』は別冊少年ジャンプで隔月連載となる。また、同作を連載していた1974年には、非商業的漫画を掲載していた当時の青林堂の『ガロ』に「どく・まん」名義で「粗相」という作品を持込、掲載されている[7]。この頃から、どおくまんプロも結成しているが、小池たかしは単独で漫画を執筆し『週刊少年ジャンプ』に読み切り掲載も行っており、締切間際に手伝いに来る程度であった。また、小池を除く3人は、漫画を描く傍ら、どおくまんの実兄が経営する工場で働いていた[8]

1975年に再び転機が訪れる。『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)の編集長・壁村耐三からの執筆依頼の電話がどおくまんたちが働いていた工場にかかってきた[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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