でんでんタウンは、大阪府大阪市浪速区日本橋3丁目から5丁目周辺にかけて広がる電気街。また、オタク向けグッズなどを取り扱うサブカルチャーの街でもある。 「日本橋(にっぽんばし)」や「ポンバシ」と通称されることも多い。 東京の秋葉原、名古屋の大須と並ぶ電気街として、「東のアキバ、西のポンバシ」とも称される。 日本橋は北側の中央区日本橋1?2丁目と、南側の浪速区日本橋3?5丁目に分かれている。電気街はおおむね浪速区側、北はなんさん通りから南は名呉橋跡の阪神高速1号環状線えびす町入口付近までの堺筋(日本橋筋)周辺に展開しており、最寄り駅は中央区日本橋に位置する地下鉄日本橋駅や近鉄日本橋駅ではなく、Osaka Metro堺筋線で一駅南の恵美須町駅や南海難波駅となる。メインストリートとなる堺筋には大型量販店等が軒を並べ、歩道には防犯カメラが設置されたアーケードが整備されている。なお、同じ日本橋でも中央区側は概ねミナミの歓楽街の一部と化し、金融機関の集中するエリアや履物問屋街(御蔵跡通り(おくらとどおり)通称:はきはきタウン)、黒門市場、国立文楽劇場などもある、電気街とは全く別の地域である。 ヨドバシカメラが梅田、ビックカメラが千日前、ヤマダ電機が難波(厳密には今宮で、大国町駅にも近い)へ相次いで巨艦店を出店したことや、ニノミヤやマツヤデンキの経営破綻、上新電機が日本橋の既存店舗を電気製品以外のホビー商品メインの店舗に切り替えたことなどもあって、家電量販店の数は徐々に減少し、堺筋にもコンビニエンスストア、飲食店等他業種の出店が徐々に増加している。家電以外に、電材や各種部品・工具等を扱う店舗もあり、電気街だけではない多岐に渡る趣味嗜好の専門店街を形成している。 堺筋の西側にも多くの店舗があり、特に通称「オタロード」と呼ばれる界隈が近年活況を呈している。正式名称は「日本橋筋西通商店街」だが、この呼称は地元でもほとんど使われない。 その他、近接する「五階百貨店」「日本橋商店会」と呼ばれる一帯には小規模な中古家電店や道具屋・古着屋などが密集しており、昔ながらの日本橋の雰囲気を醸し出している。 2005年からは、春分の日もしくは近日の日曜日に「日本橋ストリートフェスタ」が開催されている。年に一日限りという条件ではあるが、従来からの日本橋電気街の中心だった堺筋を約700メートルにわたって午後から夕方までの数時間歩行者天国として開放し、同時にパレードなどのイベントを行っている。2010年は主催者発表によれば20万人以上の来街者が集まった。 往古は名呉(なご)の浜などと呼ばれた海岸だった。大坂市街が形成されていく江戸時代初期に、日本橋から名呉橋まで南北に長い町域となったこともあって、名呉町(なごまち。名護町とも表記)から長町(ながまち)に転訛したとされる。 当初は北から順に長町茂助町・長町清助町・長町尾張坂町・長町谷町・長町毛皮屋町・長町喜左衛門町・長町甚左衛門町・長町新助町と続き、南端が単に長町という町名だったが、元禄年間までに長町1?9丁目となった。1792年に長町1?5丁目が日本橋1?5丁目に改称され、長町は6?9丁目だけとなった。このときの日本橋と長町の境界は現在の中央区と浪速区の境界におおむね一致する。 市街縁辺部の街道筋に延びる長町には旅籠や木賃宿が立ち並んだ。都市流入人口の一時的な滞留地に加えて、失業者の滞留地の性格も次第に帯びるようになり、長町の東西に隣接する天王寺村・難波村・今宮村の各一部に当たる長町裏に大坂最大のスラム街が形成されるに至った[1]。上方落語の「貧乏花見」には長町裏の住民が花見に出かける様子が描かれている。 1897年の大阪市第1次市域拡張の際に、難波村の全域と天王寺村・今宮村のそれぞれ大阪鉄道(現:JR西日本関西本線)以北が大阪市へ編入された。
概要
歴史
前史