つぼのいしぶみ
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つぼのいしぶみ(漢字表記では「壺の碑」、「坪の碑」、「坪石文」、その他の表記が古来から見られる[1])とは、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、歌枕でもある。
概要

12世紀末に編纂された顕昭作の『袖中抄』19巻に「顕昭云(いわく)。いしぶみとはみちのくの奥につものいしぶみあり、日本のはてといへり。但し、田村将軍征夷の時、弓のはずにて、石の面に日本の中央のよしをかきつけたれば、石文といふといへり。信家の侍従の申ししは、石面ながさ四、五丈ばかりなるに文をゑり付けたり。其所をつぼと云也(それをつぼとはいふなり)。私いはく。みちの国は東のはてとおもへど、えぞの嶋は多くて千嶋とも云えば、陸地をいはんに日本の中央にても侍るにこそ。」とある。

「石面ながさ四、五丈」(12-15m)という説明は石碑としては異常であって、近世になって四、五尺(1.2-1.5m)の誤りであろうとする説も出て来る[1]

「つぼのいしぶみ」のことは多くの歌人その他が和歌に詠った。寂蓮法師藤原顕昭西行慈円、懐円法師、源頼朝、藤原仲実、和泉式部南部重信藤原清輔高山彦九郎近藤芳樹岩倉具視、下沢保躬、大塚甲山、山内鶯崖、大町桂月らがこの碑のことを詠っている。その内容はいずれも「遠くにあること」や「どこにあるか分からない」ということをテーマにしている。数多くの人がこの碑のことを詠ったため、有名な石であったが、どこにあるか不明であった。

多賀城碑は発見されてから、多くの人からつぼのいしぶみであるとされたが、古川古松軒菅江真澄南部藩の名所旧蹟を研究した「旧蹟遺聞」、喜田貞吉、松井道円、長久保赤水、江刺恒久、松浦武四郎はいずれも南部壺碑説を採っている。一方、大淀三千風徳川光圀林子平、高野直重、松尾芭蕉黒川道祐新井白石佐久間洞巌、大巻秀詮は多賀城碑をつぼのいしぶみであるとした。橘南谿は両説を公平に扱い、碑文から多賀城碑を西のいしぶみであるとし、南部藩にあるものは「東の壺の碑」であるとした。そして、藤原清輔や西行の和歌は南部壺碑のことを詠っているものではないかとしている。
多賀城碑壺碑説多賀城碑

江戸時代の初め頃、多賀城跡付近のある市川村で石碑多賀城碑)が発見された。この碑は発見当初から「つぼのいしぶみ」であるとされ、当時の記録に残っており(『国史舘日録』など)、また多くの拓本もとられた。松尾芭蕉はこの碑を「つぼのいしぶみ」とし、『奥の細道』の旅中にここを訪れている。また、明治時代にも論争を呼んだ(多賀城碑偽作説)。田村麻呂が到達している地点であることは事実と一致するが、『袖中抄』にあるような、日本の中央のよしを書いたということ、「つぼ」という地名や四、五丈(12?15メートル)の石に書いたという記述とは一致しない。また彫られている天平宝字6年の西暦762年は田村麻呂が活躍する以前の年号である。

1455年(康生元年)頃、『名所追考抜書』という書に引用されている連歌師の忍誓の話で、千引石の説明の中で「雲葉和歌抄に、忍誓と申す連歌師くだりて、坪の石ふみ苔むしたるあらはして、文字書きうつし給ふ。その後見し程に、我等もうつして所持す。彼の碑の所在、高(宮ィ)城郡岡辺にあり。高森殿守護にて云々。」とある。しかし、『雲葉和歌抄』という書物は今日伝わっておらず、「我等」とする人物も不明で、書きうつしたとされる文章も記されておらず、それらを照会するすべはない[1]

1480年(文明12年)の奥書をもつ『西行物語』(『続群書類従』収録)には、白川の関の記事に続いて、「さてつぼのいしぶみぬさのたけゆふせんふくなどあはれにみまはして、ある野の中を過ぎけるに、ことありがほのつかのみえければ、道にあひたる人にあれは何と申すつかぞとたづぬれば、中将実方朝臣の御はかなりと申しければ、いとどかなしさまさりて…」とある。この記述からは、つぼのいしぶみが中将実方朝臣(藤原実方)の墓(宮城県名取市愛島村)に近いとも受け取ることができる。しかし『西行物語』は異本が多く、諸本の異同が甚だしい[1]

多賀城碑が「つぼのいしぶみ」と結びつけられたのは江戸時代のことであり、当時は古来からの歌枕を自領に置こうという動きがあった。多賀城碑が「つぼのいしぶみ」となったのも仙台藩の強い意図があったと言われている。

『文禄清談』という書物の4巻に「奥州坪石文之事」という記事がある。これは奥州宮城野の坪石文の由来を述べたものである。おおよそ、次のようなことが書かれている。昔、征夷の頃宮城野で戦いがあって、官軍が勝利し賊軍を捕らえた。賊軍は重ねて敵対しない旨の誓約文を石に彫りつけて土中に埋めた。これが坪石文である。永禄(1558-1570年)の頃、農民が畑を開墾しようとして石を掘り出した。石の面に文字が見えたので村の長に知らせ、村の長は文字を書き留めて石を元のように埋めた。その文章を見ると、大平年中大野東人軍忠ありし事、東西南北の道のりなどが記してあった、というものである。『文禄清談』の成立年台ははっきりしないが、内閣文庫のものには「寛文7年仲春摂州大坂ニテ書写ノ軍畢」と奥書があり、少なくとも寛文7年(1667年)には多賀城碑がつぼのいしぶみと呼ばれていたことは認められる[1]

『伊達治家記録』に、承応2年(1653年)7月21日、伊達忠宗が領内を巡見し帰城した記録がある。その後に、儒臣内藤閑斎の「封内山海之勝」という文書が付載されている。その中には領内名所旧跡が列挙され、その中には壺碑の名も見える。この文書は延宝初年(1673年)頃のものである。また、延宝年間(1673-1681年)に仙台藩の文書として『仙台領古城書上』がありその中に壺碑の記述もある。仙台藩内の文献としてはこれらがもっとも古いものである[1]

多賀城碑を壺碑と呼ぶことは、ほとんど発見の当初からのようで、しかもかなり早い時期から全国的に認められたと考えられる。林春斎の『国史館目録』の寛文9年(1669年)の9月17日の条に「長谷川藤信来リテ奥州壺ノ碑ノ刻文ヲ示シテ曰ク…」という記事がある。寛文の頃から仙台に滞留していた俳人大淀三千風は、天和2年(1682年)『松嶋眺望集』を刊行し、その中で壺碑の全文を紹介している。これが、全国の俳人や文雅の人々に多賀城碑を広く知らしめる役を果たしたと思われる。京都の儒医黒川道祐の『遠碧軒記』(延宝年間成立)の中で、壺の碑が紹介されている。この文章は井原西鶴の『一目玉鉾』『国花万葉記』『和漢三才図会』などの壺碑のもとになっている。松尾芭蕉は多賀城碑の予備知識を『一目玉鉾』や『松嶋眺望集』から得ていたふしがある。このように、多賀城碑は発見当初から壺碑と呼ばれていたが、歌枕のつぼのいしぶみとの関係に疑いが持たれるのは南部藩の坪石文に対する関心が生じて以降のことで、ほぼ18世紀に入ってからと思われる。もっとも、地元における里人はこの石碑を立石と呼んでいたことが伝わっている[1]

当碑の発見後、『碑の写し』は古物珍重の風潮により贈答品として用いられようにまでなるが、藩より「碑からの採拓」が制限されても版が起こされて摺られた『拓本』が量産され、その版木が現存している。
南部壺碑説日本中央の碑

青森県東北町の坪(つぼ)という集落の近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社の伝説に 1000 人の人間で石碑を引っぱり、神社の地下に埋めたとするものがあった。

明治天皇が東北地方を巡幸する1876年(明治9年)に、この神社の地下を発掘するように命令が政府から下った。神社の周囲はすっかり地面が掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。

1949年(昭和24年)6月、東北町の千曳神社の近くにある千曳集落の川村種吉は、千曳集落と石文(いしぶみ)集落の間の谷底に落ちていた巨石を、伝説を確かめてみようと大人数でひっくり返してみると、石の地面に埋まっていたところの面には「日本中央」という文面が彫られていたという。

この地区には田村麻呂は到着していないし、実際に都母(つも)に行ったとされる武将は文屋綿麻呂である。しかし、多くの古い事柄を有名な英雄である坂上田村麻呂に関係づける傾向がこの地方に多い。もしも実際に文屋綿麻呂が書いたとすれば811年(弘仁2年)頃の出来事になる。

発見後、新聞社や学者が調査を行うが、本物の「つぼのいしぶみ」であるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。これは、『袖中抄』の記述とは一致するが、常識とは異なる「日本中央」という文面や、多賀城碑の存在、田村麻呂が現地に到達していないという問題、一見して達筆であるとは言えない字の形、発見時に学者らの調査以前に拓本をとるため表面を必要以上に綺麗にしてしまった問題などが鑑定に影響を及ぼしている。

現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑は保存されている。
地名としてのつぼのいしぶみ

鴨長明が13世紀初め頃に著した『発心集』には「…夷があくろ、つかる、つぼのいしぶみなどという方にのみ住みけるとかや。」とある。あくろとは喜田貞吉は地名であるとし、また「つかる」は津軽であるからこれも地名である。同様にここでは「つぼのいしぶみ」も地名として使われている。また『延喜本平家物語』では「いかなるあくろ、つかろ、つぼの石ふみ、夷がすみかなる千島なりとも…」とありここでも地名として扱われている。また、『長門本平家物語』や『延慶本平家物語』にも同様な表現が見られる。
千引の石とつぼのいしぶみ

15世紀の作と思われる謡曲『千引』でもつぼのいしぶみが出てくる。概要は「陸奥の壺の碑に千引の石という巨石があった。この石に魂があり、人を取るので捨てようとして各戸から人を徴集した。若い貧しいつぼこという娘がいたが、男手が無かったため一人男に混じって徴集されることを悲しみ、村を出る決意をしていた。娘には以前から契りを結んでいた男がいた。娘の憂いを聞き、自分が千引の石の精であることを明かした。自分はたとえ千人に引かれても動かないが、娘が引くならやすやすと引かれようと約束をする。


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