つばめ_(列車)
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つばめは、鉄道省日本国有鉄道(国鉄)ならびに九州旅客鉄道(JR九州)による特急列車

本項では、国鉄およびJRにおいて「つばめ」を名乗った列車について記すとともに、国鉄時代に「つばめ」とほぼ同区間で運転されていた姉妹特急「はと」、および満洲で運転されていた南満洲鉄道(満鉄)の特急「はと」についてもあわせて記述する。

なお、現在JR九州で運行されている九州新幹線「つばめ」、およびその直接の前身であるJR九州の在来線特急「つばめ」「リレーつばめ」に関しては、本項では概略のみ記述することとし、詳細については「つばめ (JR九州)」を参照。
概要

1930年(昭和5年)10月から1943年(昭和18年)10月まで鉄道省が、第二次世界大戦を挟んで1950年(昭和25年)10月から1964年(昭和39年)の東海道新幹線開業まで日本国有鉄道(国鉄)が、それぞれ東海道本線で運行していた特急列車「燕」ならびに「つばめ」は、日本を代表する名門列車であった。東海道新幹線の開業後は1975年(昭和50年)3月まで東海道本線および山陽本線の特急列車として新幹線の伸展とともに運転区間を西へ移動させつつ運行され、最終的には西鹿児島駅まで到達したが、山陽新幹線博多駅開業に伴い一旦廃止された[1]

これ以降20年近く定期列車としての「つばめ」は運行されなかったが、国鉄分割民営化後の1992年(平成4年)7月、JR九州が鹿児島本線に特急「つばめ」を運行し[2]、その後、2004年(平成16年)3月に九州新幹線がその名称を引き継いだ。
戦前の「燕」「はと」
鉄道省「燕」西明石駅付近を回送する流線型C53形蒸気機関車の牽く上り特急「つばめ」(1934年12月)阪急・春日野道駅ホームから見る上り特急「つばめ」展望車(1936年4月)

「燕」は1930年昭和5年)10月から東京駅 - 神戸駅間で運転を開始[3]最高速度95 km/h、平均速度65.5 km/hで、特急「富士」と比べて約2時間20分短縮し、東京駅 - 神戸駅間を9時間で結んだ[3]。荷物車、三等二両、食堂車、二等二両、一等展望車で編成[3]。その俊足から「超特急」と称された。運賃は三等6円30銭、二等12円60銭、一等18円90銭[3]

「燕」という列車名は、先行して運転されていた「富士」「」と同様1929年(昭和4年)に行われた特急列車の愛称一般公募結果をもとに命名されたものである[4]1937年(昭和12年)7月には姉妹列車として、東京駅 - 神戸駅間に「」の運転を開始したが、太平洋戦争の激化により、1943年(昭和18年)2月に「燕」は運転区間を東京駅 - 大阪駅間に短縮され、「?」は廃止、さらに同年10月には戦争激化に伴い「燕」も廃止された。なお、1936年(昭和11年)には後述の重軌条変更を山陽本線へ展開した後下関駅まで延長運転する構想もあり、C53形蒸気機関車牽引にて神戸からは姫路駅岡山駅広島駅のみの停車で、東京駅 - 下関駅を15時間で結ぶ計画がなされていた[5]

「燕」の運行に際しては、列車の高速安定性を確保するために重軌条の使用が不可欠であった。昭和初期、一部の幹線では50 kg/m軌条を使用していたが、多くの幹線では37 kg/m軌条が使用されていた。1928年(昭和3年)に八幡製鐵所で50 kg/m軌条の製造が可能となり、東海道本線全線の軌条を50 kg/m軌条にすることにより「燕」の運行が可能となった[6]。また、食堂車と1等車にはより安定した走行を目指し、3軸ボギー台車を採用した[7]
使用車両

当時の長距離列車の例に漏れず、機関車に牽引される客車列車で、二等専用だった「富士」、三等車のみだった「櫻」と異なり、一・二・三等車すべてと食堂車を連結した初めての各等特急でもあった。本来は最後尾に一等展望車を連結する予定であったが、当初は展望車の新規製作が間に合わず、1931年(昭和6年)9月まで一等寝台車座席車扱いとして代用した。列車の設定に当たっては、大阪駅などで定時運行石炭節約の功績を挙げていた、山陽鉄道出身の結城弘毅を運転課長として本局に招き、指揮をさせた。

「燕」は最速列車として人気が高く、早い時点から増結が望まれていたが、C51形+水槽車での牽引では7輌までが限界であったため様々な試行錯誤の末[8]、1931年(昭和6年)12月からは同時間帯の東京駅 - 大阪駅間に二・三等車で編成された臨時列車「臨時燕」を増発した。1934年(昭和9年)12月以降は「不定期燕」と改称して1942年(昭和17年)まで運転され、一時期は一等寝台車も座席車扱いで連結された。
速度向上の手段

「燕」は到達時間短縮のため、それ以前には例のなかった様々な高速化策を導入した。
機関車の交換省略
1930年(昭和5年)10月、「燕」の運転を開始した当時の東海道本線は、東京駅 - 国府津駅間が電化されており、従来は特急急行列車でも電気機関車蒸気機関車を国府津で交換していた。しかし、「燕」ではその交換時間を切り詰めるため、C51形蒸気機関車による東京駅 - 名古屋駅間通し牽引とした(名古屋駅以西は梅小路機関庫配置のC51形が牽引)。国府津駅 - 名古屋駅間ではすでに「富士」・「櫻」には強力なC53形が投入されていたが、同形式はクランク位置によって起動不能になる場合があり、過密ダイヤの東京近郊区間での遅延を避けるため、在来形で信頼性の高いC51形が選ばれた。1934年(昭和9年)12月の丹那トンネル開通後は、東京駅 - 沼津駅間は電気機関車牽引、沼津以西はC53形蒸気機関車の牽引とし、沼津で機関車を交換するようになった。
給水停車の省略
蒸気機関車はボイラー用水の消費量が多く、適当な区間ごとに停車して水を補給する必要があったが、「燕」はC51形に専用の水槽車(のちの水運車ミキ20形)を増結することで、この給水停車もなくした。しかし水槽車は重量がかさみ、高速化や輸送力増強の足かせとなることから、「燕」は1932年(昭和7年)3月以降静岡駅に給水を兼ねて停車するようになった。これに伴い水槽車の連結は中止され、牽引力の余裕を得て三等車1両を増結している。この給水については、鉄道省も相当に苦心を重ねたようで、運行計画の中には「線路沿いに給水タンクをずらりと並べて、各々に線路に向けて放水するパイプを取り付け、通過列車に走行しながら給水する」等の奇抜なものまであったが実用化はされなかった[9]
補助機関車(補機)の連結・解放迅速化
運転開始当時の東海道本線は現在の御殿場線経由であり、25 ‰の勾配を有する急峻な山越え区間があった。このため、下り列車は国府津から、上り列車は沼津から、御殿場駅まで後部補助機関車を連結する必要があった。「燕」はこの連結作業時間をわずか30秒に切り詰め、なおかつ補機の切り離しは、御殿場駅付近通過中に走りながら行った[10]。この結果運転開始当初の「燕」は、下りは国府津から名古屋まで、上りは名古屋から沼津までノンストップとなった[11]。この補機連結は、1934年(昭和9年)12月、丹那トンネル開通によるルート変更によって解消されるまで続いた。一方、大垣駅 - 関ケ原駅間にも同様に25 ‰の急勾配が存在していた。この区間は片勾配で、下り列車に限り大垣駅から補機を連結する必要があったが、下り「燕」はここでも国府津駅・沼津駅と同様の30秒停車で早業連結し、登坂し終えた柏原駅付近で走行中に切り離した。
運転中の乗務員交代
ノンストップ区間では、乗務員交代の停車さえも省略された。交替の機関士機関助士は先頭の客車内で待機しており、走行中に水槽車外側の歩み板と炭水車内に改造で設けた通路(車両限界の都合もあり、屈んで通過できるサイズ)を経由して、前任の機関士・機関助士と交替したという[12]


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