ちばてつや
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俳優の「千葉哲也」とは別人です。

ちば てつや
2023年10月、内閣総理大臣官邸にて
本名千葉 徹彌[1]
生誕 (1939-01-11) 1939年1月11日(85歳)[1]
日本東京府東京市京橋区
(現:東京都中央区[1]
国籍 日本
職業漫画家
称号紫綬褒章
旭日小綬章
文化功労者
日本芸術院会員
活動期間1956年[1] -
ジャンル少女漫画
少年漫画
青年漫画
代表作『あしたのジョー』(原作:高森朝雄
ハリスの旋風
おれは鉄兵
あした天気になあれ
のたり松太郎
みそっかす
『ユカをよぶ海』
受賞

第3回講談社児童まんが賞 (『1・2・3と4・5・ロク』・『魚屋チャンピオン』)

第7回講談社出版文化賞児童まんが部門(『おれは鉄兵』)

第23回小学館漫画賞青年一般部門(『のたり松太郎』)

第6回日本漫画家協会賞特別賞(『のたり松太郎』)

文部科学大臣賞

第33回講談社漫画賞講談社創業100周年記念特別賞

公式サイトちばてつやのブログ『ぐずてつ日記』
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ちば てつや(本名:千葉 徹彌[1]1939年昭和14年〉1月11日[1] - )は、日本漫画家。代表作に『あしたのジョー』(原作:高森朝雄)、『ハリスの旋風』、『あした天気になあれ』、『のたり松太郎』、『みそっかす』など。

東京府東京都の前身)出身[1]。現在は練馬区在住。日本大学第一高等学校卒業[2]

2005年からは文星芸術大学教授を務める[3]。2019年4月1日より2022年3月31日まで文星芸術大学学長[4][5]。2012年7月から2018年6月まで日本漫画家協会理事長を務め、2018年6月から同協会会長。

キャプテン』『プレイボール』などが代表作の漫画家ちばあきお、ちばプロダクション社長千葉研作、漫画原作者七三太朗は実弟。
来歴
生い立ち

1939年(昭和14年)1月11日東京府東京市京橋区(現:東京都中央区明石町聖路加国際病院で生まれる[1][6]。同年11月に日本を離れ、朝鮮半島を経て1941年1月、2歳の時に満州国奉天(現:中華人民共和国遼寧省瀋陽市)に渡る。印刷会社に勤めていた父親が暖房用にと貰ってきた紙の切れ端に絵を書いて寒い冬を過ごしていた[7]

1945年(昭和20年)、同地で終戦を迎え、敗戦に伴い暴動や略奪などが相次ぐ社会的混乱の中、生と死が隣り合わせの過酷な幼少の一時期を過ごした。父の同僚の中国人徐集川に一家は助けられて、屋根裏部屋にかくまってもらった。翌年家族共々葫芦島へ約200kmを移動、いわゆる葫芦島在留日本人大送還により舞鶴港引き揚げ、父親の故郷である千葉県海上郡飯岡町(現:旭市)に住んだ後、東京都墨田区に移り住んだ。『ユカを呼ぶ海』を描いた時の浜辺のモチーフは、この飯岡町である。

道ばたに落ちていた豆本で初めて漫画を見る。『アラビアンナイト』を題材にした杉浦茂の作品で、その面白さに衝撃を受け、漫画にのめり込む[8]。しかしちばの家は漫画に対して厳しく、一切禁止されていたため購入や家で読むことはできず、友人の家でこっそりと読むなどしていた[9]

小学生時にちばが絵を好きなことを見て声をかけた木内堯央[10]と親友になり、彼が作成していた同人誌「漫画クラブ」に1950年(昭和25年)より参加するようになる[9]
貸本時代

高校生だった16歳のちばは、新聞の三行広告で漫画家を募集しているのを見つけて日昭書店に応募[7]。社長の石橋国松[注 1]は、ちばにプロの生原稿を見せて道具の使い方を教え、試しに描いてくるように指示したため、ちばは本格的な執筆を始めた。約3か月間にわたり、毎回20ページから30ページずつ原稿を持って行くとそのたびに続きを描くように言われていたちばは、これをテストだと思い込んでいたが、128ページ目で話を終わらせるように指示を受けて描いた最後の原稿を持ち込むと、その場で当時の大卒初任給を超える1万2351円を原稿料として石橋から手渡された[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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