ちあきなおみ
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ちあき なおみ
出生名瀬川 三恵子(せがわ みえこ)
生誕 (1947-09-17)
1947年9月17日(76歳)
出身地 日本 東京都
ジャンル歌謡曲
ポップス
ジャズ
ニューミュージック
AOR
演歌
ムード歌謡
フュージョン
フォーク
職業元歌手
担当楽器
活動期間1969年 - 1992年
レーベル日本コロムビア(1969年 - 1978年)
CBSソニー(1980年 - 1981年)
ビクターインビテーション(1981年 - 1988年)
テイチク(1988年 - 1992年)
事務所有限会社三芳プロダクション(1960年 - 1975年)[注 1]
コロムビア音楽芸能(1975年 - 1976年)
有限会社セガワ事務所(1976年 - 1992年?)[注 2]

ちあき なおみ(1947年昭和22年〉9月17日 - )は、日本の元歌手、元女優

1992年に夫の郷^治と死別して以降、芸能活動を完全に休止し、事実上の引退となった。義兄(郷の実兄)は俳優の宍戸錠、義甥(郷の甥)は宍戸開である。

結婚後東京都内に所有した不動産(ビル)のオーナーではあるものの、実業家として表立って活動しているわけではない。
来歴
生い立ち

神奈川県生まれ[1]東京都板橋区育ち[1]。3姉妹の末っ子として誕生し、芸事の好きな母の影響で4歳でタップダンスを習い、5歳の時日劇にて初舞台を踏む。幼いころから歌が好きで、4歳のときから米軍キャンプを回ってジャズを歌う[1]。小学2年生の時に神奈川県藤沢市辻堂へ転居し、藤沢市立辻堂小学校を卒業、藤沢市立湘洋中学校へ進学する。中学2年生で大田区立大森第三中学校へ転校、中学3年生で新宿区立大久保中学校(現:新宿区立新宿中学校)へ再転校する[2]
コロムビア時代

日本コロムビアのオーディションを受け保留となり、作曲家鈴木淳の元で1年4ヶ月レッスンを受ける。デビュー前は橋幸夫こまどり姉妹前座歌手を務めていた[3]。1969年、21歳の時「雨に濡れた慕情」で歌手デビューした。デビュー当時のキャッチフレーズは「苗字がなくて名前がふたつ」「魅惑のハスキーボイン」。芸名は、当時のフジテレビのプロデューサー千秋予四夫(せんしゅう よしお)の姓を「ちあき」と読ませ、坂本龍馬(本名)の「直柔」からなおみとした。

作詞家の吉田旺は、デビュー曲のほかに大ヒットとなった「喝采」「紅とんぼ」「冬隣」など数々の曲を作り上げてきた。その後もちあきと親交があるという。

1970年に「四つのお願い」や「X+Y=LOVE」がヒットし、人気歌手となる。同年、「四つのお願い」で『第21回NHK紅白歌合戦』に初出場、以降1977年の第28回まで8回連続出場した。

「四つのお願い」や「X+Y=LOVE」の頃は、いわゆるお色気アイドル路線にて活躍した。『元祖どっきりカメラ』や『コント55号の裏番組をぶっとばせ!』などのバラエティー番組に出演し、歌手でありながら体当たりな仕事もこなした。

1972年、代表曲となる「喝采」(吉田旺作詞、中村泰士作曲)が第14回日本レコード大賞を受賞し、その年の年末から翌年にかけてオリコン集計で80万枚を売り上げる大ヒットとなる。この曲は当時、ちあきの実体験を元にして作詞されたという触れ込みでプロモーションされたが、実は全くのフィクションであった。実際には前座歌手時代に兄のように慕っていた若手役者が急死した体験を持ち、それと歌詞の内容が偶然似ていたために「実体験」とすることでプロモーションに活かすという戦略をとったといわれている。「喝采」、「劇場」、「夜間飛行」などの楽曲は、歌詞の設定や内容から「ドラマチック歌謡」といわれた。

レコード大賞受賞後も、1973年に「夜間飛行」、1974年に「円舞曲」などのポップス系ヒット曲を発表する一方、演歌では船村演歌ならやってみたいと、1975年に「さだめ川」、1976年に「酒場川」「矢切の渡し」(「酒場川」のB面曲として発表)」、1988年には「紅とんぼ」などの作曲家船村徹の作品を多く歌った。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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