たま_(バンド)
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たま
別名かき揚げ丼
出身地
日本東京都
ジャンルフォークロック[1]
活動期間1984年 - 2003年
レーベル

ナゴムレコード(1986年 - 1989年)

アクシック(1989年 - 1992年)

東芝EMI(1992年 - 1994年)

地球レコード(1995年)

パイオニアLDC(1996年 - 1997年)

地球レコード(1998年 - 2003年)

事務所たま企画室
公式サイト ⇒たま公式サイト

旧メンバー

知久寿焼ボーカルギター

石川浩司(ボーカル・パーカッション

滝本晃司(ボーカル・ベース

柳原陽一郎(ボーカル・キーボード

たまは、日本フォークロックバンドである。1984年に3人で結成され、1986年に4人体制となり、1990年にメジャーデビュー、たま現象とも言われるほど話題となった。1996年から再び3人になり、2003年に解散した。
メンバー

元来は単独で活動していた音楽家の集まりであり[2]、石川曰く「ソロアーティストの集まりで自作曲自分ボーカル制」[3]を採っていた。
解散時のメンバー


知久 寿焼(ちく としあき、 (1965-02-10) 1965年2月10日(59歳) - ) - Gt. / Vo.

石川 浩司(いしかわ こうじ、 (1961-07-03) 1961年7月3日(62歳) - ) - Per. / Vo.

滝本 晃司(たきもと こうじ、 (1961-12-07) 1961年12月7日(62歳) - ) - Ba. / Vo.1986年に加入。

途中脱退したメンバー


柳原 幼一郎(やなぎはら よういちろう、 (1962-08-05) 1962年8月5日(61歳) - ) - Key. / Vo.1995年に脱退。

経歴
バンド結成から活動初期まで(1981年 - 1989年)

バンドを結成する前から、それぞれが独自に音楽家として活動していた。1981年6月頃、北千住のライブハウス「甚六屋」で知久と石川が知り合った(知久は当時高校生)。1982年12月に知久が両国のライブハウス「両国フォークロアセンター」で柳原と出会った。これらの相次ぐメンバーの出会いが、たま結成の切っ掛けとなった[4]

1984年11月11日、大久保のライブハウス「オフオフ新宿スタジオ・ジャムU」での「地下生活者の夜」というライブイベントで知久、石川、柳原が「かき揚げ丼」という仮バンド名でライブを行い、これをきっかけに「たま」を結成した。石川によると、「たま」というバンド名に決定した背景には、ソロの音楽家の集まりから発展したバンドであり、楽曲の作者によって音楽性が大きく異なることから、バンド名から音楽性が類推されることのないバンド名にしたいという意図があったという。また、略されたり間違えて覚えられたりしないような短い名前にしたいという理由もあった[5]。しかし、とある情報誌のライブハウスのライブ出演者一覧に「また」と間違って記載されたことがある。なお、「かき揚げ丼」のライブは、たまの1stカセットテープ『またたび』として販売された[注釈 1]。「たま」というバンド名で初めてライブを行ったのは、1984年12月5日の「オフオフ新宿スタジオ・ジャムII」で開かれたコンサート「On Christmas GIG '84 BYE BYE」でのことだった。

1986年6月にメンバーの憧れのライブハウスである吉祥寺の「曼荼羅」で「3丁目ジャグ・バンド」の前座として初出演し、演奏を見たマスターからレギュラー出演を打診され、レギュラー出演するようになった[4]。8月のツアーの後、フランス料理店に就職していた柳原が真剣に解散を提案した。それでも、知久がバンドの継続を熱心に主張し、存続の条件である音楽性の充実のためにベーシストを募集した。そして同年11月、当時ソロで音楽活動をしており、たまのメンバーとも面識があった滝本がただ一人応募してきて加入し、4人編成になった。なお、滝本にはそれまでベースの演奏経験がなかったが、「既にたまは完成されているバンドだった。誰かが入ってこのバランスが崩れるくらいなら、自分が入ろうと思った」という理由で応募した。滝本は当時、Closed.G.show(クローズド・ジー・ショウ=自閉症のもじり)なるバンドを組んで活動していたが、たまのベーシスト応募時、滝本以外のメンバーは逃げて滝本は一人となり、最早バンドの体をなしていなかった為、応募しやすかったのもあったと思われる。この4人編成での初のライブは同年12月2日に開かれた「曼荼羅」でのコンサートでのことだった。ただし、このライブでは滝本は一部でしか演奏に参加しなかった。滝本が本格的に参加した初のライブは1987年1月29日の「曼荼羅」でのコンサートのことで、このときの録音をインディーズレーベル「ナゴムレコード」に送付した。たまがデモテープを送ったのはこれが初めてのことだった。それから数ヵ月後の11月、オムニバスアルバムへの参加を依頼され、それ以降、ナゴムレコード関係の活動も増加していった[4][6]
イカ天出演、メジャーデビュー、柳原の脱退(1989年 - 1995年)

1989年11月11日、吉祥寺のライブハウス「MANDARAII」での定例コンサートの後[4]、ナゴムから発売されるLP「しおしお」のプロモーションを兼ねてTBS系深夜番組『三宅裕司のいかすバンド天国』に出演した。人気番組であったイカ天への出演はメンバー間でも意見が割れており、何度話し合っても結論は出ず(知久・石川は「出るべき派」で柳原・滝本は「出なくてもいい派」であった)、業を煮やした当時のマネージャーでシンガーでもあり、現在は石川、知久も在籍する「パスカルズ」のメンバーである女性が未承諾でデモテープを番組に送ったことで番組出演が決定された[4]。キノコのような髪型・チャンチャンコ・下駄履き姿の知久や山下清を彷彿とさせる体型・服装の石川の個性的な容姿、キャッチフレーズの“かなしい気持ちはとっても不安定”を体現するかのような楽曲「らんちう」でインパクトを与えた。登場時のナレーションでも「また危ないのがやってきた」と紹介されている。この時期は“色物”にカテゴライズされるバンドの登場が目立った[注釈 2]ことから、この回のスタジオには「イロものバンド撲滅キャンペーン実施中」という横断幕が掲げられていたが、たまは完奏を果たした。審査員の吉田建はオリジナリティを評価する発言をし(しかし「オリジナリティがあるのが良かったですね...」と発言したきり俯いてしまい、最終審査でも吉田はサイバーニュウニュウに投票している)、中島啓江は「“能ある鷹は爪を隠す”かもしれない」「涙出てきちゃった、それと同時に笑いも出てきちゃった」、グーフィ森は「変でしたね。こういうの分かるって言っちゃいけない、分からないんだけどいい」と評した。この回は番組史上初の外国人バンドTOKIO ROSEがチャレンジャー賞を有力視されていたが、これに競り勝って見事チャレンジャー賞を獲得、サイバーニュウニュウを審査員投票5対2で倒して14代目イカ天キングとなった。当時柳原の家にはテレビが無かったために番組のシステムすら把握しておらず、翌週も出演することもよく理解していなかった。

キングとなったたまは、2週目(11月18日放送分)にのちに大ヒットとなる「さよなら人類」を歌い、審査員7名全員の支持を獲得して、チャレンジャーの高校生バンドTRIDENTに圧勝。その後も3週目(11月25日放送分)には「オゾンのダンス」で坂本プロジェクトを、4週目(12月2日放送分)には「ロシヤのパン」でTimeless Childrenを下し、3代目グランドイカ天キングにリーチをかけた。5週目(12月9日放送分)に登場したのが、グラムロック・バンドのマルコシアス・バンプ(楽曲は「バラが好き」)である。彼らの演奏は審査員の絶賛を受け、圧倒的な差でこの回のチャレンジャーに選ばれた。キングとして迎え撃ったたまの楽曲「まちあわせ」は、最小限の楽器編成による短い楽曲で、マルコシアス・バンプの煌びやかで重厚な楽曲・演奏とは対照的であった。司会の三宅は「意外な曲」「五週目にこの曲で来ることはないのに」と評し、マルコシアス・バンプのボーカル・ギター担当の秋間経夫には「だってすごいんだもん」と言わしめた。たまの4人は勝ちを狙うつもりは一切なく、「勝っても負けてもどうせこれが最後」「ならば思い切り茶化そう」という理由で「まちあわせ」を演奏することにしたが、結果は審査員投票4対3でたまが制し、5週連続勝ち抜きを達成、第3代グランドイカ天キングの座に輝いた。このことについて後に石川は「流れっちゅうもんは怖い」と話し、知久も「いつも評価してくれない審査員の吉田建さんが俺らに(審査の札を)上げちゃった」と語っている。

メンバーはこれまでは音楽活動と並行して別にアルバイトや仕事をしていたが、たまの人気が沸騰したことから音楽活動に専念するため退職した[7]


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