たのしい四年生
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たのしい一年生
ジャンル
学年別総合雑誌学習幼年漫画情報
読者対象小学校1年生(児童初等教育1年次在籍者
刊行頻度月刊誌
発売国 日本
言語 日本語
定価50(『タノシイ一年生』、1939年 - 1942年)
130円(前身時代、1950年)
出版社講談社
刊行期間1956年9月(第1巻第1号) - 1963年3月(第7巻第12号)
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『たのしい一年生』(たのしいいちねんせい)は、かつて存在した日本の学年別総合雑誌である。編集・発行講談社。「講談社の繪本」(のちの「講談社の絵本」)シリーズとして学期ごとに発行した書籍『タノシイ一年生』(1939年 - 1940年)、『國民學校タノシイ一年生』(こくみんがっこうたのしいいちねんせい、1941年 - 1942年)、同じく同絵本シリーズの『たのしい一年生』(1950年 - 1956年)を前身とする[1][2]1956年9月月刊誌化、1963年3月休刊。

本項では、追って創刊されたが短命に終わった『たのしい二年生』(たのしいにねんせい、1957年 - 1963年)、『たのしい三年生』(たのしいさんねんせい、1957年 - 1963年)、『たのしい四年生』(たのしいよねんせい、1958年 - 1963年)、『たのしい五年生』(たのしいごねんせい、1959年 - 1963年)、『たのしい六年生』(たのしいろくねんせい、1960年 - 1963年)についても詳述する。

休刊後の時期にかつて存在した、同社による同名の小学校入学準備雑誌については、「たのしい幼稚園 (雑誌)#増刊」を参照
略歴

1936年昭和11年)12月 - 大日本雄辯會講談社(現在の講談社)が「講談社の繪本」を創刊、当初は絵本のシリーズであった。

1939年(昭和14年)4月 - 同シリーズの1冊として、新学期に向けた書籍『タノシイ一年生』(講談社の繪本 104)を発行する[1]。監修に田中豐太郎、福島鶴吉、和田實を迎える[1]。定価50

同年9月 - 2学期の開始に向けて『タノシイ一年生 第二學期』(講談社の繪本 121)を発行する[3]


1941年(昭和16年)1月 - 3学期の開始に向けて『タノシイ一年生 第三學期』(講談社の繪本 133)を発行する[4]

同年4月 - 同年3月1日の国民学校令により小学校が国民学校(初等科)となったことを受けて、『國民學校タノシイ一年生 ダイ一ガッキ』(講談社の繪本 174)とタイトルを新たに発行する[2]

同年9月 - 『國民學校タノシイ一年生 ダイ二ガクキ』(講談社の繪本 187)を発行する[5]


1942年(昭和17年)1月 - 『國民學校タノシイ一年生 ダイ三ガクキ』(講談社の繪本 197)をもって戦前の発行は終了する[6]

1950年(昭和25年)3月15日 - 「講談社の絵本」(第2期)とシリーズを改め、新学期に向けて『たのしい一年生 だい一がっき』(講談社の絵本 26)を発行する[7]。定価130円。「講談社の絵本」シリーズによって『たのしい一年生 だい二がっき』、『たのしい一年生 だい三がっき』も発行され、これは、1956年(昭和31年)3月発行の『たのしい一年生 だい一がっき』(講談社の絵本 561)まで続刊する[8]

1956年(昭和31年)9月 - 2学期の開始に向けて月刊誌『たのしい一年生』を創刊、創刊号を9月号(第1巻第1号)とする[9]

同年12月 - 『婦人倶楽部』第37巻第12号の巻末に、野間省一社長名で社告『「たのしい二年生」「たのしい三年生」発刊について』が打たれる[10]


1957年(昭和32年)1月 - 『たのしい二年生』、『たのしい三年生』を創刊、創刊号をそれぞれ1月号(第1巻第1号)とする[11][12]

1958年(昭和33年)4月 - 『たのしい四年生』を創刊、創刊号を4月号(第14巻第4号、前身雑誌『幼年クラブ』)とする[13]

1959年(昭和34年)4月 - 『たのしい五年生』を創刊、創刊号を4月号(第1巻第1号)とする[14]

1960年(昭和35年)4月 - 『たのしい六年生』を創刊、創刊号を4月号(第1巻第1号)とする[15]

1963年(昭和38年)3月 - 学年末に向けて発行された3月号(各巻12号)をもって、すべての学年誌を休刊する[11][12][13][14][15][16]

概要

大日本雄辯會講談社(新字体:大日本雄弁会講談社、現在の講談社)が、第二次世界大戦後の「講談社の絵本」の前身となる「講談社の繪本」のリリースを、1936年(昭和11年)12月に開始し、その2年後の1939年(昭和14年)4月、同シリーズの第104巻として、尋常小学校(のちの国民学校、現在の小学校)への新入学に向けた書籍『タノシイ一年生』を発行したのが、そもそもの始まりであった[1]。監修に迎えた東京高等師範学校(のちの東京教育大学、現在の筑波大学訓導であった教育学者の田中豊太郎、東京市緑尋常小学校(現在の墨田区立緑小学校)第6代校長の福島鶴吉、東京目白保姆学校(現在の東京教育専門学校、和田実学園)の創立者・和田實を迎える[1]

1945年(昭和20年)の第二次世界大戦後は、野間省一が4代目社長に就任し、「講談社の繪本」は「講談社の絵本」と新字体になるとともに通巻を改め、1950年(昭和25年)3月15日には、戦前と同じく学期始めごとの書籍として、『たのしい一年生 だい一がっき』を刊行した[7]。このシリーズは、1956年(昭和31年)3月発行の『たのしい一年生 だい一がっき』まで続いた[8]。当時の編集長は、常務取締役編集局長の高村重惟であった[7]。この時点で同社は、戦前戦後を通じて、「講談社の絵本」シリーズを始め、書籍においても雑誌においても、小学校1年生向け以外の学年誌は、まだ発行していなかった[17]。同年9月、2学期の開始に向けて同シリーズを月刊誌化し、『たのしい一年生』を創刊、創刊号を9月号(第1巻第1号)とした[9]。同誌が対象とするのは「1949年(昭和24年)4月2日 - 1950年(昭和25年)4月1日生まれ」の学年で、これは第一次ベビーブーム団塊の世代)におけるピークを示す時期(出生数269万6,638人、1949年)を含む学年であった。幼稚園児に対しても、同年1月から『こどもクラブ』(かつての『コドモヱバナシ』)を『幼稚園くらぶ』と改称していたが[18]、『たのしい一年生』創刊後の同年12月には、『たのしい幼稚園』と改め、誌名を連携させた[19][20]。「たのしい幼稚園 (雑誌)」を参照

この新たに創刊した『たのしい一年生』には、監修者に当時東京教育大学教授でありのちに和光大学を創設することになる梅根悟(1903年 - 1980年)、東京大学教育学部教授海後宗臣(1901年 - 1987年)、東京学芸大学学長であった教育学者・木下一雄(1890年 - 1989年)の3名を迎え、創刊号には「監修者のことば おかあさまへ」を掲載した[9]


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