たのきんトリオ
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たのきんトリオは、日本男性アイドルグループ田原俊彦(トシちゃん)、野村義男(ヨッちゃん)、近藤真彦(マッチ)の3人のジャニーズ所属アイドルからなる。1980年代前半に短い期間のみ活動した(1983年8月28日に解散)[1]。ただしトリオの名称を用いていた期間中も3人は、ソロ活動が中心だった。また正式なユニット名ではないものの、一時期、アイドル雑誌で、スーパースリーとの名称が用いられたこともある。3人はいずれも『3年B組金八先生』の第1シリーズに生徒役で出演した。

名称の由来は、殿さまキングスの愛称「とのきん」をもじったもので、田原の「田(た)」、野村の「野(の)」、近藤の「近(きん)」のそれぞれの文字より抜粋している。
メンバー

プロフィール愛称イメージカラー
田原俊彦 (リーダー)
(たはら としひこ) (1961-02-28) 1961年2月28日(63歳)、B型山梨県出身トシちゃん■レッド
野村義男
(のむら よしお) (1964-10-26) 1964年10月26日(59歳)、A型東京都出身ヨッちゃん■ブルー
近藤真彦
(こんどう まさひこ) (1964-07-19) 1964年7月19日(59歳)、O型神奈川県出身マッチ■イエロー

概要

1970年代後半のジャニーズ事務所は、郷ひろみの移籍に始まり、フォーリーブスの解散、VIPの主要メンバーの脱退及び退所や解散、豊川誕の退所、新人や新ユニットの不発が重なっていた。当時エース格の扱いを受けていた川ア麻世は、ブロマイド売上NO.1にもかかわらず、ヒット曲には恵まれなかった。

こうしたジャニーズ事務所の低迷期に、自転車で各テレビ局間を移動して、自社タレントを売り込む毎日だった、ジャニーズ事務所副社長のメリー喜多川が獲得した仕事が、1979年10月?1980年3月に放映されたTBS系ドラマ『3年B組金八先生』であった。この3人は生徒役で出演し注目され、テレビや雑誌などメディアにおけるプッシュ及び、マスコミやファンからの注目や人気の対象が一斉に「たのきんトリオ」に切り替わった。1970年代のトップアイドルの新御三家(ジャニーズ事務所出身は、郷ひろみのみ)に例えると、田原俊彦が郷ひろみ、近藤真彦が西城秀樹、野村義男が野口五郎の路線をそれぞれ受け継いでいる。1980年5月12日付・日刊スポーツによると、この3人の愛称には公募が行われ、約28,000通のハガキが寄せられたと報告されている[2]。そして“たのきん”の名はジャニー喜多川が発案した。これ以前は、元々この3人をグループとして選抜したわけではなかったことから最初はグループ名も一定せず、集英社の雑誌「セブンティーン」では「悪ガキトリオ」の呼称を使っていた[注釈 1]他、「新々御三家」「金八トリオ」「太陽っ子トリオ」「三Bトリオ」など、新聞や雑誌によって様々な呼称があった[2]

1980年4月1日にジャニーズ事務所が当時よく利用していた六本木フォンティーヌ地下で、3人の初イベント『金八トリオ・ファンの集い』を開催する予定だったが、300人入れば満杯となる会場より六本木の駅までファンで埋め尽くされるほど、予想をはるかに上回るファン(約一万人)が来場したため、イベントは中止となった。続いて1980年5月26日に放映を開始したフジテレビ系ドラマ『ただいま放課後』でますます人気は過熱していき、放映回数は当初の予定より延長された。

1980年5月11日、『ただいま放課後』のロケ地だった神奈川県厚木市東京工芸大学厚木キャンパスのグラウンドで行われた同番組のイベント『放課後青空カーニバル』にて、3人に対する愛称「たのきん」と、そのファンを表すネーミング「たのきん族」が発表された。しかしこの時は、ファンから「かっこ悪い」などと戸惑いや不満、落胆の声が上がっていた[2]。メンバーのうち、田原は自伝『職業=田原俊彦』(2009年6月刊)で「どこかおっちょこちょいなイメージがして、僕個人はあまりうれしくなかった」といったことを述べていた他、ジャニー自身も“たのきんトリオ”の案については、記者会見にて「ジャニーさん、これ冗談じゃないよね。誰が考えたの」など一番無茶苦茶に言われ、自分が発案したとも言えず「ホント、誰でしょうね」ととぼけていたと話している[2]

1981年4月に集英社から刊行された『青春音楽グラフィティ タイガースからYMOまで』での第一章「青春音楽の系譜」には「完全に作られたアイドルで、いわゆる商品。歌の世界のものじゃない」などと書かれている[3]

その後ジャニーズ事務所所属のアイドルグループとして結成され、相次いで歌手デビューする。俳優として映画でも共演し、次々と大ヒット作を連発した。映画については、先行して山口百恵等の主演映画をヒットさせていたホリプロが製作は日活撮影所、配給は東宝と分けてコミットしていたのに対し、配給製作とも東宝と全面的に提携し、大きなステージを持つ東宝砧撮影所を拠点に華々しい作品イメージを打ち出したのが特徴である。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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