たけくらべ
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たけくらべ
作者
樋口一葉
日本
言語日本語
ジャンル短編小説
発表形態雑誌連載
初出情報
初出『文学界1895年1月号(25号) - 3月号(27号)、8月号(32号)、11月号(35号) - 12月号(36号)、1896年1月号(37号)〈7回分載〉
文芸倶楽部』1896年4月号〈一括再掲載〉
刊本情報
収録『一葉全集』
出版元博文館
出版年月日1897年1月
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
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『たけくらべ』は、樋口一葉短編小説1895年明治28年)1月から翌1896年(明治29年)1月まで『文学界』に断続的に連載(文学界雑誌社、第25 - 27号、32号、35号 - 37号)。

連載終了3か月後の同年4月10日発行の『文芸倶楽部』(博文館、第2巻第5号)に一括掲載され、森?外幸田露伴斎藤緑雨らから激賞を受けたことで、樋口一葉の文名が一挙に知れ渡るきっかけになった作品である[1]。題名は伊勢物語 第23段の、幼馴染みの若い男女が筒井筒(丸い井戸の竹垣)で背をくらべた子供時代を懐かしむ話に因む[2]

吉原遊郭遊女を姉に持つ14歳の少女・美登利 (みどり) と僧侶の息子・藤本信如 (ふじもとのぶゆき、しんにょ) との淡い恋を中心に、吉原遊郭裏手の町「.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}大音寺前(だいおんじまえ)」に住む思春期前の少年・少女たちの生活を、千束神社の夏祭りから大鳥神社の三の酉の市までの季節の移り変わりを背景に描き出した作品。
概要一葉記念公園にある、一葉女史たけくらべ記念碑

1893年(明治26年)、一葉は吉原にも近い下谷区下谷龍泉寺町において荒物雑貨駄菓子屋を経営しており、このころの実体験で得た題材が「たけくらべ」はじめ作品へ繋がっていると考えられている。翌1894年には下谷から本郷区丸山福山町へ転居し、「暗夜」、「大つごもり」に続き「たけくらべ」を連載した。一葉は「裏紫」に至るまで作品を次々と発表しており、後に「奇蹟の14ヶ月」と評される期間にあたる。

1895年(明治28年)1月22日の星野天知一葉宛書簡(日本近代文学館所蔵)によれば、星野は文学界1月号の原稿が集まらないために一葉に作品を依頼し、一葉は書き溜めていた作品「雛鶏」を改題して発表したという。翌1896年(明治29年)、『文芸倶楽部』に一括掲載されると、森?外幸田露伴らに着目され、鴎外の主宰する『めさまし草』誌上での鴎外、露伴、斎藤緑雨の3人による匿名合評「三人冗語」において高い評価で迎えられたが、一葉はこの頃結核が悪化し、同年11月には死去している。再掲載時の原稿は口述して妹の邦子に書き取らせたものであり、「一葉」と署名された上下に別人による加筆があり「樋口一葉女」と記されている(発表作品における一葉の署名は一般に「樋口夏子」か「一葉」)。没後に『一葉全集』が刊行され、「たけくらべ」をはじめとする作品は現在に至るまで広く親しまれることとなった。

1918年(大正7年)に博文館から刊行された真筆版『たけくらべ』では、鏑木清方口絵を手がけており、鏑木は1940年(昭和15年)にも墨画『たけくらべ美登利』(京都国立近代美術館所蔵)を制作している。また1925年(大正14年)には、木村荘八吉原遊廓の賑わいを描いた画『たけくらべ絵巻』を制作している。

作中に登場する龍華寺のモデルは、浄土宗寺院の大音寺であると考えられている。また、東京都台東区竜泉の一葉記念公園内には、佐佐木信綱による短歌「そのかみの美登利信如らも此の園に来あそふらんか月白き夜を」が刻まれた「一葉女史たけくらべ記念碑」(歌碑)がある[3]。未定稿などの肉筆原稿日本近代文学館山梨県立文学館早稲田大学図書館天理大学附属天理図書館駒澤大学図書館などに所蔵されている。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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