そろばん
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この項目では、珠を移動させて計算する道具について説明しています。

小惑星については「そろばん (小惑星)」をご覧ください。

和算において算木とともに用いる算盤(さんばん)については「算盤」をご覧ください。

そろばん

そろばん(漢字表記:算盤、十露盤など)とは、計算補助用具の一種であり、串で刺した珠を移動させ、その位置でを表現し、計算の助けとするもの。

日本では珠を用いた計算補助用具(西洋式にはアバカスと呼ぶもの)全般を指す場合にも、「そろばん(ソロバン)」の語が使われることがあるが、本項では東アジア式のそろばんと日本式のそろばん(英語でsorobanまたはJapanese abacus)の双方を解説し、特に日本式のそろばんについて詳説する。
概説

そろばんとは、物体に状態で数を記憶させるため、串で刺した珠などの位置でを表現し、計算の助けとする道具である。ひとつ串(ひと筋の串)が数の「ひと」に対応しており、珠を指で上下に移動させることで各数字の表現や変更を行う。主として、などの計算が行える。

算術における計算には、使用する方便物により、何も使用しない暗算、紙や筆記具を使用する筆算、そろばんを使用する珠算(しゅざん)がある[1]。計算法は器械的・客観的であるほど迅速かつ正確に計算することができる[2]

珠算は整数や小数を扱う場合には比較的桁数が多くても敏速かつ正確に計算できる長所がある[3]。また、四則計算の主要部分などは簡易な加減法九九の適用によって計算することができる[4]

日本の伝統文化・和算の名残としての面もあり、電卓やコンピュータが登場した現在でも、計算器具としての主流からは外れつつも、後述の通り教育分野などでの再評価もあって使われ続けている。
歴史
起源上が中国で古くから使われた算盤で、各桁に、五玉が2個ずつある。また1の珠も5個ずつある。下は、現代日本のそろばん

起源については諸説あるが、アステカ起源説、アラブ起源説、バビロニア起源説、中国起源説などがある。

メソポタミアなどでは砂の絵に線を引き、そこに石を置いて計算を行っていた「砂そろばん」の痕跡がある。同様のものはギリシャなどにも残るが、ギリシャ時代には砂だけでなくテーブルの上などにも置いていた。このテーブルを「アバクス(abacus)」という。ローマ時代に持ち運びができるように小さな板に溝を作りその溝に珠を置く溝そろばんが発明された。この溝そろばんが中東を経て中国に伝わり現在の原型となったともいわれている。現存する最古のそろばんは1846年にギリシアのサラミス島で発見された「サラミスのそろばん」と呼ばれるもので、紀元前300年頃のものである。
中国での発展

中国では紀元前の頃から紐の結び目を使った計算方式や、算木を使用した籌算(ちゅうざん)と呼ばれる独自の計算方式があった。これらは紐や竹の棒や木の棒で計算していたものであり、桁を次々に増やせる利点はあるが珠の形ではない。珠の形になったのは2世紀ごろのことと考えられ、『数術記遺』という2世紀ごろの書籍に「珠算」の言葉がある。なお三国志の武将、関羽がそろばんの生みの親とする伝説があるが三国時代より前から中国と中東・ローマには交易の痕跡があるため関羽が発明したというのは伝説以上のものではない。ただし中国ではよく知られている伝説であり、関帝廟の壁や柱には絵や彫り物のそろばんが描かれている。

1000年ごろにはアステカにもそろばん状のものが存在していた。珠にとうもろこしの芯が使われ、紐に通していたと考えられている。
日本への伝来昭和以降に日本で一般的になったタイプのそろばん。五珠が1つ、一の珠も4つある。

日本語の「そろばん」は「算盤」の中国読み「スワンパン」が変化したものだといわれている。中国から日本に伝わったのがいつ頃か詳しいことは分かっていないが、少なくとも15世紀初頭には使用されていた[5]。『日本風土記』(1570年代)には「そおはん」という表現でそろばんのことが記されており、その頃には日本に既に伝来していたことがうかがえる。なお使用できる状態でという限定ではあるが、現存する日本最古のそろばんは前田利家所有の陣中で使ったといわれているのもので尊経閣文庫に保存されているもの(1桁に五玉2つ・一玉5つで9桁、縦7cm、横13cmの小型で、桁は銅線、珠は獣骨製)[6]とされていた。2014年における珠算史研究学会の考察では、黒田藩家臣久野重勝の家に伝来した秀吉拝領の四兵衛重勝拝領算盤というそろばんの方が古いという[7][8]

なお、室町時代の「文安元年」(1444年)の墨書銘の残るそろばんが現存し、前田利家のそろばんに匹敵する古さとの見方がなされている[5][9][10]

そろばんが民衆に広まったのは豊臣秀吉に仕えた毛利重能に留学したのち、京都で開塾し、そろばんを教授するようになってからである[5]。毛利重能は後の関孝和に連なる和算の始祖となっている。1979年に発売された、そろばんと電卓を組み合わせたシャープのソロカル(EL-8048)塵劫記の、そろばん使用法を解説している頁

江戸時代には「読み書きそろばん」といわれ寺子屋や私塾などで実用的な算術が教えられていた[11]

1872年の学制で小学校の算術は「洋法ヲ用フ」とされ、そろばんは小学校の算術から追放された[12]。この急変には社会の実情に合わないとの声があり混乱が見られたため、明治6年文部省布達第37号の補則で珠算も併用する趣旨であるとの通達が出された[12]。結局、この補則も1874年には廃止されたため、そろばんは小学校では教えられなくなった[12]。しかし珠算の価値が再認識され、明治14年文部省令で筆算または珠算のいずれかを選択するか併用できるとする法令が発布された[12]1900年の小学校令施行規則では筆算を本体とし、土地の状況により珠算を併用することとされた[12]

日本では昭和中期くらいまでは、銀行の事務職や経理の職に就くにはそろばんによる計算(珠算)を標準以上にこなせることが採用されるための必須条件だった。小学生や中学生が珠算塾に通った他、珠算の協会の主催による珠算検定を受験し「○級」(4級?1級など)を習得し、就職時に履歴書に書いた。珠算塾ではしばしば、そろばんを使った珠算だけではなく、暗算の講座も開かれており、そろばんを指で動かせるようになると、それを応用して習得でき、就職のために暗算検定の「級」も習得する人が多かった。なお、この時代、手動式アナログ計算器としては計算尺があり、理系の人間はそちらも使いこなした。
電卓やコンピュータの登場

競技において計算機械より速く計算した、という記録もいくつか存在している。1946年11月11日[注釈 1]、アーニー・パイル劇場(接収中の東京宝塚劇場)にて、『スターズ・アンド・ストライプス』紙の後援で逓信省一番のそろばんの達人であった貯金課の松崎喜義[注釈 2]と、最新の電動機械式計算機を使うアメリカ陸軍所属でGHQの20th Finance Disbursing SectionのThomas Nathan Wood二等兵との間で計算勝負が行われ、4対1でそろばんが勝利を収めている[13][14][15][16]カシオ計算機の樫尾俊雄はこれを報じる新聞を前に「算盤は神経。されど計算機は技術なり」とメモした[15](勝負を見ていた、とする説もある[17])。物理学者リチャード・ファインマンは自伝(R・P・ファインマン 1986, pp. 10?14)の中で、自身がそろばんの達人と計算のスピードを競い合ったエピソードを紹介した。
教育分野での再評価


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