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素麺(そうめん、索麺)は、小麦粉を原料とした日本を含む東アジアの麺のひとつ。主に乾麺として流通するため、市場で通年入手できるが、冷やして食することが多く、清涼感を求めて夏の麺料理として食するのが一般的である。 索餅・索麺・素麺などの名称が混じって用いられた。 古代中国大陸の後漢の『釈名』や唐の文献に度々出てくる「索餅」が日本に伝わったものとする説が有力である。その他の説として、南北朝時代に元から禅僧の往来や貿易によって「索麺」が伝えられたものという説がある[1]。室町時代には現在の形になったとされ、「そうめん」が初めて記録されるのは素麺の初見は康永2年(1343年)八坂神社の『祇園執行日記』で「丹波素麺公事免除」と記述されている。さらに、奈良の法隆寺の『嘉元記』正平7年(1352年)5月10日条に、僧兵の快賢が南北朝の合戦に参加した恩賞の宴に「サウメマ」が振舞われていて、このころ「素麺」の名称が定着したとされる[2]。 乾麺については小麦粉に食塩と水を混ぜてよく練り、綿実油などの食用油、もしくは小麦粉や澱粉を塗ってから、よりをかけながら引き延ばして乾燥、熟成させる製法で『手延べ干しめんの日本農林規格』を満たしたものについては「手延べ素麺(てのべそうめん)」に分類される。近年では手延べ素麺も、原料のこね作業や延し工程・綿実油の塗布・細目にする作業のローラー、麺への切断機使用など、大幅に機械化が進んでいる[6][7]。小麦粉に食塩と水を混ぜてよく練った生地を帯状に細く切って乾燥させる製法のもので機械にて製造しているものは「機械素麺(きかいそうめん)」に分類される。 日本農林規格(JAS規格)の『乾めん類品質表示基準』では、機械麺の場合、素麺の麺の太さは直径1.3mm未満とされている。これより太い直径1.3mm以上1.7mm未満はひやむぎ(冷麦)、1.7mm以上はうどん(饂飩)と分類される。手延べ麺の場合は、素麺もひやむぎも同基準であり、めん線を引き延ばす行為のすべてを手作業により行っているなどの条件を満たしたものが、太さに合わせて、それぞれ「手延べ素麺」、「手延べひやむぎ」、「手延べうどん」とされる。 乾麺のものは保存性はよいが、他の麺に比べてタバコシバンムシなどの虫がつきやすく、保存には注意が必要である。長期間保存され油分が抜けるとサラサラとした口当たりになり食味が増す。手延べ素麺の賞味期限は多くの業者が製造後3年6ヵ月としている[8]。 生麺・茹で麺等については『生めん類の表示に関する公正競争規約』で、「この規約で「うどん」とはひらめん、ひやむぎ、そうめんその他名称のいかんを問わず小麦粉に水を加え練り上げた後製麺したもの、または製麺した後加工したものをいう」となっている。この規約上「素麺」は「うどん」に分類されており、狭義では生麺・茹で麺タイプの素麺はうどんの一種とも解釈できる。しかし別項にて「一般消費者に誤認されない名称に替えることができる」となっているため、それにより「素麺」の名を使用することも認められており、『生めん類の表示に関する公正競争規約』では一部特産品を除き太さに関する具体的な数値による基準や形状に関する具体的な規定を設けていないため、「素麺」、「ひやむぎ」、「細うどん」等は製造・販売業者にて見た目の形状による判断や意向等により、一般消費者に誤認されない範囲で自由に選択して名付けられる。
名称
歴史
索餅の伝来
素麺は日本国内では奈良県桜井市が発祥の地とされており[3]、奈良時代に唐から伝来した唐菓子の1つ、索餅(和名で「麦縄」とも書く事もある)に由来するとする説が広まっている[1]。
日本では天武天皇の孫、長屋王邸宅跡(奈良市)から出土した木簡が最も古い「索餅」の記録となっている[1]。原形はもち米と小麦粉を細長く練り2本を索状によりあわせて油で揚げたもので、現在の油条に似たものと考えられる。唐菓子の索餅は神饌として現在でも用いられており、素麺の原形を知る手がかりとなる。
索餅の材料・分量・道具については平安時代中期の『延喜式』に書かれており、小麦粉と米粉に塩を加えて作る麺(米粉は混ぜないという説もある)という事は分かっているが、形状については不明であり[1]現在の素麺やうどんよりもかなり太く、ちぎって食べたのではないかとする説が有力的である。
祇園社の南北朝時代の記録である『祇園執行日記』の康永2年7月7日(1343年7月28日)の条に、麺類を指す言葉として索餅(さくべい)、索麺・素麺(そうめん)と3つの表記があり、これが「そうめん」という言葉の文献上の初出とされている[1][注釈 1]。
平安時代には七夕に索餅を食べると病(マラリア性の熱病)にかからないという中国の故事に倣って、宮廷での七夕行事に索餅が取り入れられていた[1]。
索麺から素麺への変化
奈良時代から南北朝時代には形状が不明であった索餅がこの時代を境に形状が解明されてきているが、索麺はそれまでの索餅と形状も名称も似ているため、言葉の混用が起きたと考えられている[1]。
中国では日本よりもはるかに早く、北宋時代に「索麺」の表記が出ている。南宋時代末期から元初期頃の『居家必要事類全集』という百科全書に出ている索麺の作り方には「表面に油を塗りながら延ばしていくことで、最後に棒に掛けてさらに細くする」等といった日本の手延素麺の製法と酷似した特徴が書いてある[1]。
室町時代は、茄でて洗ってから蒸して温める食べ方が主流で、「蒸麦」や「熱蒸」とも呼ばれた。この時代の文献には、「梶の葉に盛った索麺は七夕の風流」という文章も残されている。また、この時代の宮廷の女房詞では、素麺を「ぞろ」と呼んでいた[1]。
江戸時代には、七夕(七姐節)にそうめんを供え物とする習俗が広まっていった。これは、細く長い麺を糸に見立てて裁縫の上達を祈願したものである[1]。
寺島良安の『和漢三才図会』(1712年)では索餅を「さふめん」と読み、「俗に素麺ともいう」としており、江戸時代初期の儒学者林羅山も同様の認識を示している。また、江戸末期の記録者斎藤月岑が『東都歳時記』(1838年)の中で「家々冷索麺を饗す」と記しているように、江戸末期まで「そうめん」の表記は混乱が見られる[5]。
分類