この項目では、札幌市中央区にある繁華街・歓楽街について説明しています。横浜市青葉区にある地名については「すすき野」を、相模原市中央区にある地名については「すすきの町」をご覧ください。
すすきの交差点のすすきのビル(.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度3分19秒 東経141度21分13.7秒 / 北緯43.05528度 東経141.353806度 / 43.05528; 141.353806 (すすきのビル)
すすきの(ススキノ、薄野、英: Susukino)は、北海道札幌市中央区にある、すすきの交差点を中心とした繁華街・歓楽街。日本国内外から観光客が訪れる観光地にもなっている[1]。 東京・新宿の歌舞伎町、福岡の中洲と並んで「日本三大歓楽街」と称される[2]。すすきのは「東京以北で最大の歓楽街」および「アジア最北の歓楽街」といわれており[1]、飲食店、ガールズバー、キャバクラ、セクシーキャバクラ(セクキャバ)、ホストクラブ、スナックバー、クラブ、ラブホテル、風俗店などが集積している。一つのビルの中に飲食店や風俗店が入居しているほか、ホテルなどの宿泊施設、娯楽施設や商業施設が隣接しているなど、あらゆる業種が集積しているのが特徴になっている[3]。また、女性だけで飲み明かしても安全な歓楽街であるとされ、歓楽街の割には治安が良いことも特徴になっている[3]。 すすきのは正式な地名ではないが、札幌市営地下鉄「すすきの駅」「豊水すすきの駅」や札幌市電「すすきの停留場」の駅名などに使用している。その範囲は、広義では東西が西1丁目から西9丁目の間、南北が南3条から南8条の間とされているが[4]、北海道警察は東西が西2丁目から西6丁目の間、南北が南3条から南7条の間としている[5]。「札幌市屋外広告物条例」による「広告物活用地区」に指定されている区域があり、まちの活気や雰囲気を形成するため広告物の規制緩和ができるようになっている[6]。 すすきの地区の店舗数は、ピーク時には飲食店だけでも5000店を超えていたと言われる[7]。日本銀行札幌支店の調査によると、1989年末時点では総店舗数が4809店(内飲食店数が4190店)であったが[8]、その後の景気低迷の影響などにより[7][8]、2008年末時点では総店舗数が4463店(内飲食店数が3620店)に減少している[8]。特に飲食店の減少傾向が際立っているが[7][8]、その反面風俗店や駐車場の数は増加傾向にあるという[8]。 2020年現在、札幌市中心部ではコロナ下でも進む[9]空前のホテル建設ラッシュが巻き起こり、すすきのでも商業施設ラフィラの建て替えをはじめ[10]、飲食店などが入居するビルの間に挟まれた空き地や時間貸し駐車場が、瞬く間にホテルに変貌。奇抜なデザインの施設が至る所に建ち、街は様変わりしている[11]。 「薄野」(すすきの)の名称については、開拓使によって遊廓を設置する際に工事監事であった薄井龍之の姓に因み、当時の開拓判官であった岩村通俊が名づけたという説と[12][13]、地名を起源にしたという説(1869年(明治2年)の地図では、札幌一帯がことごとく「茅野(茅は芦、ススキ、スゲなどの総称で、特にススキを指す場合もある)」となっており[14]、当時の開拓使役人の回想でも「南5条辺は茅野なり」と述べられている[14])の2説がある[12][14]。前者の説については、札幌開府の請負総元締・中川源左衛門が岩村から直接見聞きした話とされていることから、後者よりも信憑性が高いとしている資料は多い[12]。また中川によると、測量を担当した藤井小主典が薄井の名のみが地名に残ることを悔しがったとめ、苦笑した岩村が薄野の一角を取って「藤井町」と命名したという[12]。1872年(明治5年)頃、薄野には「藤井町」の他、「仲の町」「柳川町」という地名もあったが、同年布告された人身売買禁止令に伴い、翌1873年(明治5年)に「福島通」「津軽通」「上磯通」などと改称され、さらに1881年(明治14年)に条丁目に統一された[13][15]。現在の南4条西3丁目と南5条西3丁目の境目に当たる通りが「仲町」と呼ばれるのは、昔の名残だと言う[16]。 1871年(明治4年)、一時中断していた開拓使による札幌本府建設が再開すると、多くの請負人、大工、職人が札幌に送り込まれた[17]。創成期の札幌は概ね創成川畔を中心に開けていったが、1871年春頃には、既に創成川周辺(現在の創成川公園付近)に定住者や出稼ぎ相手の宿屋・飲食店などが計6軒あった[18]。さらに同年、開拓使は函館から商工民12戸を移住させたが、そのうち7、8戸が宿屋や飲食店などの接客業であり[13][19]、彼らもまた創成川畔に居を定めた[19]。これらの宿屋・飲食店の多くは遊女屋も兼ねており、通称「飯盛女」と呼ばれる遊女を常時3人?10人程度抱えていた[20]。開拓大判官の岩村通俊は、創成川周辺の私娼地帯を当初黙認していたが、風紀紊乱をいつまでも放置しておくわけにもいかず、結局公認の遊廓を設置して遊女を1箇所に集めることとした[21]。遊廓の候補地には当時の「新冠通」(現在の南3条東部付近)を推す者もいたが[13][22]、結局現在の南4・5条と西3・4丁目の二町四方に設置することとなった[23]。
概要
名称の由来
歴史薄野遊廓の御用女郎屋「東京楼」の遊女・芳子(中央の人物)。1872年頃撮影
明治時代
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