さゝやき
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しみず すみこ
清水 澄子

生誕1909年5月1日[1][2]
日本 長野県小県郡上田町大工町(現・上田市中央三丁目)[1][3][注 1]
死没 (1925-01-07) 1925年1月7日(15歳没)[4][5]
日本 長野県上田市 信越線上田駅西方[6][5]
死因自殺轢死
墓地浄福寺[7][8]
記念碑生家跡(うえだ敬老園横)[9][10]
国籍 日本
教育上田市立女子尋常小学校卒業
長野県上田高等女学校(在学中に死去)
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清水 澄子(しみず すみこ、1909年明治42年〉5月1日 - 1925年大正14年〉1月7日)は、日本の女学生。長野県上田高等女学校(現・長野県上田染谷丘高等学校)3年時に、15歳で鉄道自殺を遂げた[4]。そののち、遺稿集『さゝやき』が刊行されてベストセラーとなったが[4]、死を美化した危険な本として、女学校などでは読むことが禁止された[11]。それでもなお隠れて読む者が後を絶たず[11]、歌手の高輪芳子を含め[12]、多くの自殺追随者を出したとされる[13][14]
生涯
生い立ち

1909年明治42年)5月1日、長野県小県郡上田町大工町(現・上田市中央三丁目)にて[注 1]、父・袈裟雄と、母・千代の長女として生まれる[1]。両親は共に学校教師で[1]、袈裟雄は長野県立上田中学校(現・長野県上田高等学校)教諭、千代は上田女子尋常高等小学校(現・上田市立清明小学校訓導であった[18]。地方都市としては、最高水準のインテリ家庭であった[19]。また弟に、1911年(明治44年)生まれの龍郎がいた[2][注 2](家族については#家族も参照)。

千代は澄子の死後、「あゝ澄子や、思へば思ふ程、お前は生を此の世に享けた時から、既に既に淋しい悲しい運命でした。お前の生れた其の時はお父様は東京に御生活。私の側には誰も居ず。名をつけてくれる人も届けてくれる人もなく、真から祝福してくれる人もなく、ほんとにお母ちやんは悲しかつた。(中略)けれど今お前といふ私には最大のものを失つた、此の死なむばかりの悲みに比べては、あんな苦痛はまあどうして苦痛であつたでせう」と書き記している[20][注 3]幼い頃、弟の龍郎と

小さいときから千代によれば、「年寄で歩るけないから可哀さうの、彼のややのお母さんはややを大人と一緒にお湯に長く入れてゐるから可哀さうの、何がか可哀さう彼が可哀さうと、よくそんなに可哀さうなことが眼につくと笑はれる程、他人のことは可哀さうがる」子供だった。一方で自分の悲しさ、苦しさなどは人に見せることを嫌い、7歳のときに叔母に預けられていたことがあったが、たまにようやく会いに行った母の帰り際には、便所へ閉じこもって涙を隠していたという。また転んで机の角で目を打ったときも、転ぶと同時に幕の中へ隠れ、痛みに出る涙を隠していた[22]

また、千代は自身が嫁入り後に苦労した経験や、自身が多忙で身体も弱いことから、様々な用事を澄子に言いつけていたが、澄子は忍耐強く仕事をこなし、子供が嫌がるような用事も、決して嫌と言うことはなかったという[23]

1916年大正5年)4月、上田市立女子尋常小学校(現・上田市立清明小学校)に入学。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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