さらば冬のかもめ
The Last Detail
監督ハル・アシュビー
脚本ロバート・タウン
原作ダリル・ポニクサン
『The Last Detail』
製作ジェラルド・エアーズ
『さらば冬のかもめ』(さらばふゆのかもめ、The Last Detail)は、1973年のアメリカ合衆国のコメディドラマ映画。監督はハル・アシュビー、出演はジャック・ニコルソン、ランディ・クエイド、オーティス・ヤングなど。荒くれた2人のベテラン海軍下士官と、年若い新兵との間に芽生える奇妙な友情を描いている。原作はダリル・ポニクサンの1970年の小説『The Last Detail』。
アカデミー賞3部門、カンヌ映画祭パルム・ドールにノミネートされたアメリカン・ニューシネマの佳作である。 ある日、ノーフォーク基地に勤務する海軍下士官バダスキー(ジャック・ニコルソン)とマルホール(オーティス・ヤング)に、罪を犯した新兵をポーツマス海軍刑務所
ストーリー
最初は適当に任務をこなすつもりだったバダスキーだったが、徐々にメドウズに同情を抱いてしまう。若くして刑務所に入れられてしまう彼を哀れに思った彼は、刑務所までの道中でメドウズに人生の何たるかを教えてやろうと考えた。マルホールは任務に私情を挟むバダスキーに「大物ぶるな、俺達は海軍で一生飯を食うんだ」と詰め寄るものの、自らも情に流されていく。バダスキーとマルホールはメドウズを連れて酒盛りをしたり、街に繰り出して海兵隊員相手に3人で喧嘩を売ったり、日蓮正宗の伝道所をのぞいたり、賭けダーツで儲けたり、メドウズに売春婦(キャロル・ケイン)を抱かせたりと各地で騒動を起こして回る。二人に振り回されるメドウズは初めは困惑しつつも次第に心を開らき、一人前の男として自信を持ち始める。そのうち信号兵であるバダスキーに勧められた事もあり、手旗信号を教えてくれとまで言い出す。起伏に富んだ旅を送る内、3人の中に奇妙な友情が芽生えていく。
刑務所に送られる前日のボストンで、3人は冬の公園でバーベーキューをする。バダスキーはどこか不機嫌に振舞っている。食事の後、マルホールが「もう止めにしよう」と呟くと、バダスキーはやりきれない表情でこれからのメドウスの身上を嘆いた。メドウズは太い枝を懸命に両腕で折ろうとしており、何度も繰り返した末に枝を二つに折る。何かを決意した表情で立ち上がったメドウスはゆっくりと歩き出し、呼び止める二人に手旗信号を送る。「ブラボー(B)・ヤンキー(Y)・ブラボー(B)・ヤンキー(Y)・終わり」=「BY BY(バイバイ)」と送った後、「ナンミョーホーレンゲキョー」と唱えながら走り出していく。つまづいたメドウスにバダスキーがつかみかかる。「逃がしてくれ」と泣き叫ぶメドウズを、バダスキーはマルホールの制止を振り切って拳銃で殴り続ける。
結局メドウズは両脇を二人に抱えられて目的地にたどり着き、予定通りに刑務所に収容される。任務を終えたバダスキーとマルホールは若い海兵中尉の当直士官(マイケル・モリアーティ)からメドウズの傷の理由を詰問されるが、自分達が勝手に虐待したと答える。帰り際に中尉が書類ミスをすると、バダスキーは「控えを忘れてますぜ」と皮肉を口にする。帰り道、「海兵野郎め、海軍一仕事を判っている俺に教えを垂れやがって」「控えを受け取る事も知らねえクセに!」と精一杯に悪態を付くバダスキーに「こんな任務は二度とごめんだ」と呟くマルホール。
二人はノーフォークで再会する事を約束して刑務所を後にするのだった。 1969年にプロデューサーのジェラルド・エアーズは、小説家のダリル・ポニクサンが執筆中であった『The Last Detail』を映画化する権利を購入し[3]、「ドライブ・ヒー・セッド
キャスト
ビリー・バダスキー
演 - ジャック・ニコルソン、日本語吹替 - 石田弦太郎海軍の信号科一等兵曹(軍曹)で、叩き上げの海軍下士官。同僚のマルホールとメドウズの護送を命じられる。
血気盛んな捻くれ者だが、親分肌で面倒見の良い部分もある。メドウズに「自由に生きる事」との大切さを教えていく。
ミュール・マルホール
演 - オーティス・ヤング、日本語吹替 - 神谷和夫アフリカ系アメリカ人の海軍一等兵曹で、バダスキーの同僚(互いに知己はない模様)。現実的にものを考えるタイプで、やや冷めた物の見方をする。
ラリー・メドウズ
演 - ランディ・クエイド、日本語吹替 - 安西正弘20歳前の新兵。40ドルを盗んだ罪で懲役8年と懲戒除隊の重罪を言い渡される。人生経験が浅く、ぼんやりとした性格。
恵まれない家庭に育ち、情緒が不安定な部分がある。
そのほかキャロル・ケイン(娼婦)、ナンシー・アレン(日蓮宗の教徒)、クリフトン・ジェームズ(海軍の下士官)、マイケル・モリアーティ(海兵隊の中尉)らが出演。
製作
エアーズは幾つかの大作を成功させた実績を背景にコロムビア映画に製作資金を出させる事に成功したが、配給側の作品中での言葉遣いに関する懸念を解くのに非常に苦労した[6]。コロムビア映画の重役は作品で使われる罵倒を減らすか、別のものに変える事を条件に出したが[6]ロバートが拒絶した事で、ニコルソンの主演が決まる直前まで企画は存亡の危機にあった[3]。
監督に関してはロバート・アルトマンとハル・アシュビーの二人にオファーが出され、後にエアーズは「私はアシュビーの持つ作風がこの映画に必要だと感じた」と回想している[6]。当時、アシュビーは「ハロルドとモード」(1971年)の商業的な失敗から立ち直り、新しい映画を作れる立場に復帰していた[7]。実は1971年にアシュビーは一度オファーを断っているが、1973年に再度オファーを受けた時には作品参加に意欲を見せた[8]。