ささや ななえこ(1950年(昭和25年)1月31日- 、旧名:ささや ななえ)は、日本の漫画家。北海道芦別市出身。血液型はB型[1]。ペンネームは旧姓の本名「笹谷七重」より[2]。24年組のひとりで、山岸凉子・萩尾望都・竹宮惠子・坂田靖子らとも親交が深い。 兄2人、姉1人の4人きょうだいの末っ子として生まれる。本格的に描き出したのは中学3年になってからで、小学校入学当時に絵の上手な子供ばかりを集めた特別教室があり、選ばれたことがあるのだが、小学2年の時に拒否反応が起こり、以後、絵が描けなくなっている。中学2年の頃に小説に興味を持ち、童話に投稿したことがあり、落選している。中学3年になったあたりに石ノ森章太郎が好きになり、絵が描けるようになり、作品を創り始めている[2]。また、小学生の時の同級生に石ノ森章太郎の『ミュータント・サブ』によく似た人物がおり、そのことがきっかけで石ノ森作品を模倣するようになったのだともいう[1]。 高校1年の時に『少年マガジン』へSFものを初投稿し、2本ほど投稿して没になり、続けて『別冊マーガレット』へも投稿し、選外佳作に入る。この時に才能がないものとあきらめ、長いこと投稿をしていない、しかし、きょうだいが選んだような教師への道は進みたくないとして、教育大学への進学には抵抗を示し、不合格を機に自宅浪人を希望している。高校卒業後、浪人中に描いた投稿した作品を『週刊マーガレット』と『りぼんコミック』に送っている。当時は、マンガスクールの場合は原稿が返却されなかったのだが、この両誌は返却をしてくれたのだという。1970年、19歳の時にナチスドイツのユダヤ人迫害をテーマにした、当時としては斬新な個性あふれる内容の「かもめ」で『りぼんコミック』1月号にてデビュー。ささやの父親はかつて絵を志しており、戦前に北海道で総合雑誌を創刊していたことがあり、マスコミ関係のことも詳しかったため、娘に簡単に漫画家の道が開けるとは思ってはいなかったようであるが、編集者が見せてくれたささやの原稿を見て、考えを改めたのだそうである。デビューしたら上京することは考えていたが、東京の友人を作ることから始め、萩尾望都と知り合い、大泉の家に居候し、半年ほど寄宿し、それから翌年の1972年に上京する、というステップを踏んでいる[2]。 1974年の終わりにフリーになり、『別冊少女コミック』・『プリンセス』などで執筆し、「飛ぶ鷹 - アギオン」・「真貴子」・「春夏秋冬」などを発表し、数多くのファンを得ている。また、横溝正史原作の『獄門島』の漫画化も行っている[2]。 「ダートムーアの少年」・「あほんだら」・「真貴子」など、少年少女の心象風景を印象的に描いた作品で知られるが、80年代以降は「化粧曼荼羅」「ミノタウルス」「生霊(いきすだま)」などのホラー・サスペンスも数多く手がけている。 夫は、JUNE (雑誌)の創刊者である編集者の佐川俊彦[3]。1990年、自らの夫婦生活をユーモラスに描いたエッセイ漫画「おかめはちもく」で第19回日本漫画家協会賞優秀賞受賞。 フリージャーナリストの椎名篤子の著書『親になるほど難しいことはない』を読み、児童虐待の実態を漫画で広く伝えたいとの思いから、1994年より『YOU』にて児童虐待の現場を描いたノンフィクション「凍りついた瞳(め)―子ども虐待ドキュメンタリー」を連載[4]。同作は大きな反響を呼び、1999年には社民党の保坂展人衆議院議員が青少年問題特別委員会
来歴
現在は京都精華大学マンガ学部ストーリーマンガコースの非常勤講師も務めている[6]。
作品リスト
漫画
かもめ?GULL?(りぼん、集英社)
手紙(りぼん、集英社)
おやすみジュディ(りぼん、集英社)
栗毛とリボン(りぼん、集英社)
フェリシア(りぼん、集英社)
深いむらさき色の…(りぼん、集英社)
サンディがやってきた日(りぼん、集英社)
ジュ・テーム(週刊マーガレット、集英社)
本町51番地(りぼん、集英社)
かえるが鳴くから(りぼん、集英社)
ユマ(りぼん、集英社)
天使たちの丘(りぼん、集英社)
マクドナルド氏の恋(りぼん、集英社)
おまえとおれ(りぼん、集英社)
ダートムーアの少年(りぼん、集英社)
明るい夏の日(りぼん、集英社)
きんぼうげ(りぼん、集英社)
あがり目さがり目(りぼん、集英社)
薔薇よ薔薇よ(りぼん、集英社)
あほんだら(りぼん、集英社)
ペトルーシカ(りぼん、集英社)
だるまさんがころんだ(りぼん、集英社)
若葉の頃(りぼん、集英社)
西中三人組シリーズ
やるかてめえら!(りぼん、集英社)
みんなくたばれ!(りぼん、集英社)
勝手にしやがれ!(別冊少女コミック、小学館)