この世をば_我が世とぞ思ふ_望月の_欠けたることも_無しと思へば
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「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも 無しと思へば」(このよをば わがよとぞおもう もちづきの かけたることも なしとおもえば)は、寛仁2年10月16日ユリウス暦1018年11月26日)に、太閤藤原道長が詠んだとされる和歌。この日は道長の3女・藤原威子後一条天皇中宮として立后された日であり、摂関政治の絶頂を示した歌としてしばしば引用され、望月の歌と呼ばれることもある[1][2]
背景[ソースを編集]藤原道長(『紫式部日記絵巻』)

藤原道長一条天皇期の関白藤原兼家の子であり、兄の藤原道隆藤原道兼の後塵を拝する立場であった。しかし兄たちが相次いで病に倒れ、道隆の息子藤原伊周兄弟との権力闘争に勝利したことで、道長は朝廷を主導する立場についた。道長は娘である藤原彰子を一条天皇に入内させ、天皇中宮(正妻)として立后した。

寛弘8年(1011年)、三条天皇が即位した。道長は娘の藤原妍子を入内させ、中宮として立后している[3]。しかし道長は一条天皇と彰子の子である敦成親王の早期擁立を狙い、三条天皇に圧迫を加えた[3]。このような状況下で三条天皇は藤原実資小野宮流の廷臣に頼った[4]。小野宮流は兼家の伯父藤原実頼の系統であり、当主実資は有職故実に通じた朝廷の実力者で、しばしば公然と反対活動を行う気骨のある人物として知られていた[5]。しかし道長の圧力は強力であり、実資らも天皇との関係強化には慎重であった[6]

長和5年(1016年)、三条天皇は眼病の悪化もあって退位し、敦成親王(後一条天皇)が即位した。道長は摂政となったが、健康不安もあって子の藤原頼通への権力移譲に注力することとなった。翌寛仁元年(1017年)には摂政を頼通に譲り、更にその翌年寛仁2年(1018年)2月9日には太政大臣も辞任して表面上は引退状態になった。頼通のほかの高官はほとんど道長派であり、警戒する必要があるのは大納言となっていた実資のみであった[7]。威子の立后はこのような状況で行われた。これにより太皇太后彰子、皇太后妍子、中宮威子という三后すべてを道長の娘が占めるという空前絶後の事態[注釈 1]となった[9]
寛仁2年10月16日の祝宴[ソースを編集]

寛仁2年10月16日、道長の屋敷土御門殿で祝賀行事が開かれた。摂政内大臣頼通、左大臣藤原顕光右大臣藤原公季、大納言実資以下の公卿が参加したが[10]、権大納言藤原公任は姉藤原遵子の喪に服していたため参加しなかった[11]。公卿は庭中に整列し、中宮威子に対して慶賀を述べた[9]。そして東対に宴座が設けられ、威子に御膳が供された。その後、二次会的な宴会である穏座が南の簀子においてはじまった[9]

最初頼通が上座を占めていたが、道長が入場するとその座を譲って公季に向かい合う形で着座した[10]。このため行酒(酒の注ぎ手)が通る場所がなくなり、一旦地下に降りてから行き来しなければならなくなった[10]。公卿・殿上人地下人・楽人が楽器を鳴らして歌い、宴は大いに盛り上がった[12]。三?四巡した後、道長は実資に、頼通へ盃をすすめるよう頼んだ。盃はその後顕光・道長・公季と巡っていった。出席者には禄[注釈 2]が配られたが、道長は「親がもらう子からの禄はあるかい」とふざけるなど上機嫌であった[10]

その後、道長は実資を呼び、「歌を詠もうと思う。必ず返歌してくれ」と頼んだ。実資は「返さないことなど有りましょうか」と応じた。道長は「これは誇りたる歌(自慢している歌)に思われるかもしれない。しかし事前に作っていた歌ではない」と述べた後、次の歌を詠んだ[10]。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}此世乎は我世と所思望月乃虧たる事も無と思ヘハ—藤原道長、『小右記』寛仁二年十月十六日条[13][10]


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