けん玉
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この項目では、日本の玩具について説明しています。その他の地域の類似玩具については「世界のけん玉」をご覧ください。
けん玉(伝統的玩具)けん玉で遊ぶ人を描いた油絵。19世紀。

けん玉(けんだま)は、十字状の「けん(剣)」と穴の空いた「玉」で構成される玩具[出典 1]オックスフォード・イングリッシュ・ディクショナリーには「柄の先端がカップ状になっている玩具。その柄には、糸によってボールが付けられている。それはボールを投げ上げ、カップ又はもう一方の先端の尖った部分で受けるためである。ゲームもこのようにして行なう」と説明がある[6]日本をはじめ、世界各国で遊ばれている。なお表記には剣玉、拳玉、剣球、拳球などがあるが、21世紀初頭では「けん玉」が一般的。

21世紀に入って世界的に流行する「KENDAMA」(英語版)は[出典 2]、日本発祥のけん玉で[出典 3]1918年広島県で考案された「日月ボール(にちげつボール)」が原型である[出典 4]一般社団法人日本記念日協会は「日月ボール」が実用新案として登録された5月14日を2017年に「けん玉の日」と制定している[出典 5]

けん玉は海外でも「KENDAMA」と呼び[出典 6]、世界共通語として使われる[出典 7]アメリカヨーロッパなどでも大会が開かれている[出典 8]
歴史メキシコのバレロ(balero)
世界のけん玉詳細は「世界のけん玉」を参照

木製の棒や玉、リングなど、2つのものをまたはで結び、一方を引き上げまたは振り、もう一方に乗せる・穴を突起物にはめるような玩具は昔から世界中に存在する[出典 9]。けん玉は英語でカップ・アンド・ボール(Cup and Ball)[出典 10][31]フランス語ビルボケ(bilboquet)[出典 11]ドイツ語でクーゲル・ファング(Kugelfang)と呼び[出典 12]、けん玉の起源についてはいろいろな説があり、現在はまだ確認されていない[出典 13]。日本のアイヌ民族のウコ・カリ・カチュ、アメリカ五大湖周辺のインディアンに伝わっているジャグジェラ、エスキモーに伝わるアジャクゥァクなどもある[6]。今日、けん玉の古い記録で確認できるのは、16世紀のフランスアンリ3世の頃で[出典 14]、ピエール・ド・エストワールが「1585年の夏、街角で子どもたちがよく遊んでいる“ビル・ボケ”を、王様たちも遊ぶようになった」と書いている[出典 15]。またフレデリック・グランフェルドの『GAMES OF THE WORLD』にも、国王アンリ3世が好んで遊んでいたという記事を載せていることからも裏づけられる[出典 16]。ビルは玉、ボケは小さい木のことで、木で作られた小さな玉で遊ぶという意味だったようで[2]、ビルボケは紐付きの穴のあいたボールを、手に握った軸にさすという単純な遊びだったが[2]、多くの人々が熱狂したと伝えられる[出典 17]。貴族や上流家庭のビル・ボケは象牙などを使い、彫刻がほどこされていたのでたいそう高価なものだった[出典 18]。ビルボケやメキシコバレロ(balero)などは現在も現地にて販売されている。
日本におけるけん玉

現在世界各地にあるけん玉の多くはこのビル・ボケが、オランダなどを通じ伝わったものと考えられているが[出典 19]、フランスのビルボケが日本に伝わった証拠となる文献は確認されておらず[15]、日本のけん玉のルーツについての詳細は不明である[出典 20]。外国の実物が伝ったのか、伝え聞いて似たものを作ったのか、日本でもっと古くからあったのか、どの可能性も残されていると考えられる[10]

日本の文献で確認できるのは江戸時代からであり[3]1830年に喜多村信節が著した『喜遊笑覧(きゆうしょうらん)』に「安永六七年の頃拳玉と云もの出來たり」という記載がある[出典 21]。これが「拳玉」という言葉の初出と見られている[6]。この資料にはけん玉の図はなく文章で紹介されているだけだった。しかし、それよりも前の資料である1809年の義浪ぎろう編『拳会角力図会』に「すくいたまけん」としてけん玉が図つきで紹介されていることが1981年に判明した[出典 22]幕末期の柳亭種彦作『明鴉墨画廼裲襠(あけがらすすみえのうちかけ)』第十三編上下の表紙には、拳玉をしている女性の絵が描かれている[6]

日本におけるけん玉は、あんえい6,7年(安永6年は1777年)のころ出て来たとあり、“匕玉拳”も“拳玉”も当時、国内唯一の開港地であった長崎から広まったものと考えられる[出典 23]。当時のけん玉は大人が酒席の遊戯具にした鹿角製のものがあったと文献に記されており[出典 24]、また遊びだけでなく、占いにも用いられたとされる[33]

明治時代になり、文部省発行の児童教育解説『童女筌』(どうじょせん、1876年)にて「盃及び玉」として紹介されてから、集中力や器用さを育む教具となって子どもの世界に浸透していく[出典 25]。江戸時代から明治時代までのけん玉は、棒と玉だけのけん玉でビル・ボケに近いスリムな玩具だった[出典 26]
けん玉と廿日市

広島県広島市の隣街佐伯郡廿日市町(現廿日市市)は、平安時代平清盛守護神として信仰した厳島厳島神社を訪れる全国からの参拝者にとっての玄関口として古くから賑わっていた[出典 27]。廿日市は難読地名としても知られ[37]、その名称は、鎌倉時代に毎月二十日に定期市が開かれていたことに由来する[出典 28]。厳島には神社仏閣を建設修復するために鎌倉京都などから大工指物師が招集され[出典 29]、これをきっかけに木工技術が広がっていき、宮島細工宮島杓子など広島の木工製品の発展へと繋がった[出典 30]江戸時代には中国山地産の木材の集積港として繁栄し[出典 31]、傘用ろくろや廿日市そろばん、置物など木工業も発展した[出典 32]。明治時代には、廿日市の木工職人たちが、街を通る厳島神社の参拝者や旅人に買ってもらおうと、けん玉などの木製玩具の製造を始めた[出典 33]。明治初期の廿日市の人口3,000人のうち、1,000人が木工業関連に従事したとされる[23]。この時代のけん玉のほとんどは、ヨーロッパの同類の玩具同様、一つの受け皿と紐で玉を結びつけた持ち手から成るものだった[21]大正時代に入り、同じ広島県呉市中通六丁目36番地に居住する江草濱次という職人が、1918年[出典 34]、それまでのけん玉を改良した『日月ボール(にちげつボール[出典 35])』を考案し[出典 36]、同年10月1日に出願[3]、翌1919年5月14日に実用新案として登録した[出典 37]一般社団法人日本記念日協会は「日月ボール」が登録された5月14日を2017年に「けん玉の日」と制定している[出典 38]。江草が廿日市の木材加工技術に着目し[出典 39]、廿日市を訪れて家具小物づくりを行っていた本郷木工(現本郷)に製造を依頼[出典 40]1921年頃より廿日市で製造が始まった[出典 41]。江草が命名した「日月ボール」の名の由来は、丸い玉が真っ赤に燃え盛る太陽三日月型に湾曲した皿がのようだと宇宙を表現するロマンチックなものだった[出典 42]。日月ボールは、従来のけん玉を改良して受け皿3つ、持ち手、けん先を備えた玩具で[出典 43]、今の日本のけん玉の原型となった[出典 44]。それまでのけん玉は、球を刺すか、球を皿(盃)で受けるか、例外なくどちらか一つだった[16]。両方を合体したものが日月ボールである[16]。受け皿3つは日本独特けん玉である[出典 45]。尾崎織女日本玩具博物館学芸員は「何と前衛的造形だろう。日月ボール型こそが日本オリジナル。一つの道具多機能を詰め込む日本的モノづくり志向性が感じられる」と称賛している[16]。それまでの「1本の棒の両端に、けん先や皿で構成されていた物」から、さらに「鼓状の皿胴を組み合わせた」ことにより「日月ボール」は「ビル・ボケ」などから進化し、技や遊び方が大幅に広がった[出典 46]。またこの形状により、数え切れないほどの技が生み出された[出典 47]。廿日市では当初は全て手作業で製造していたが、1924年頃から動力の普及により、大量生産が可能となって売り上げも上昇[出典 48]。江草は「日月ボールの歌」というCMソングを作って大々的に販促をスタートした[23]。この「日月ボール」が関西方面を中心に爆発的ヒット[23]、大正時代から昭和の初期まで子どもから大人まで大ブームを興し[出典 49]、お境内神社で競技会が開かれるほどに盛り上がりを見せた[出典 50]。大正初期から昭和初期にかけては、けん玉は「日月ボール」と呼ばれた[16]

昭和の初期にかけて、羽子板に玉をつけたものなど、いろいろなけん玉が現れた[2]戦後に数社がそれぞれ自社製品としてけん玉製造を始めた[23]。発祥の地・廿日市では人気ピーク期の1970年代には、全国シェアの7割にあたる年間40万本程度が生産された[出典 51]。またアメリカなど、海外にも輸出した[23]。時代が進むにつれ、新しいおもちゃテレビゲームなどに押され[出典 52]需要が激減[出典 53]。「日月ボール」ブームは過ぎ去り、やがてけん玉は、お土産用の絵付けデザインの民芸品の一つとして埋もれ始めた[出典 54]。廿日市のけん玉も時代のニーズの変遷と共に需要は激減し[40]、木工玩具離れもあって製造業者も減少、1975年にはわずか3社となり、1998年には最後の一社も生産を中止し、廿日市におけるけん玉の歴史も一旦途絶えた[出典 55]。廿日市でのけん玉製造の復活は2000年のこと[23]2000年代から、アメリカを中心に海外のストリートスポーツとしての人気の高まりを受け、廿日市が"けん玉の聖地として認識されるようになった[23]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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