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内容の出典についての確認の要約:ノート:くるみ割り人形とねずみの王様
『くるみ割り人形とねずみの王様』(くるみわりにんぎょうとねずみのおうさま、独:Nusknacker und Mausekonig)は、E.T.A.ホフマンのメルヒェン。1816年にカール・ヴィルヘルム・ザリーツェ=コンテッサ
(ドイツ語版)並びにフリードリヒ・フーケの作品と共に『少年童話集』(『童話集』とも[1])という単行本に収録された[2]。その後作品集『ゼラピオン同人集(ドイツ語版)』第一巻に収められた[2]。チャイコフスキーのバレエ『くるみ割り人形』の原作として知られる作品である[3]。医務参事官シュタールバウム家のあるクリスマスの情景からはじまる。この家には上からルイーゼ、フリッツ、マリーの3人の子供がおり、下の娘マリーは7歳になる。彼女はたくさんのクリスマスプレゼントのなかから不恰好なくるみ割り人形をみつけ、これがすっかり気に入るが、これをフリッツが大きな胡桃を無理に割ろうとして故障させてしまう。くるみ割り人形を気の毒に思ったマリーは、その夜、戸棚に飾ってある他の人形のベッドを借りてくるみ割りを休ませようとする。するとあたりの様子が変化し、地面から7つの首をもつネズミの王様が軍勢をともなって現われる。それに対してくるみ割り人形が動き出し、ほかの人形たちを率いてネズミの軍を相手に戦争を始める。マリーがくるみ割りの窮地を救おうとすると、彼女は不意に気を失い、気がつくと包帯を巻かれてベッドに寝かされていた。母親たちの話では、マリーは夜中まで人形遊びをしているうちにガラス戸棚に腕を突っ込んで怪我をしてしまったのだという。
マリーが名付け親であるドロッセルマイヤーおじさんにこのことを話すと、彼は「ピルリパート姫」にまつわるおとぎ話を話して聞かせる。物語の中では姫はネズミの呪いを受けて醜くされてしまうが、時計師ドロッセルマイヤーとその甥の活躍でもとの美しさを取り戻す。しかしその身代わりにまだ若い甥のドロッセルマイヤーが醜い姿に変えられてしまったのだった。この話を聞くと、マリーは彼女のくるみ割りこそが青年ドロッセルマイヤーなのだと考える。こののち、マリーのもとに夜な夜なネズミの王様が現われ、くるみ割りの安全と引き換えにマリーのお菓子を要求するようになる。マリーが仕方なく戸棚の敷居に菓子を置いておくと、翌朝にはネズミによって食い荒らされているのだった。しかしネズミはさらにマリーの絵本や洋服まで要求するようになる。マリーが困ってくるみ割りに話しかけると、彼は一振りの剣を与えてほしいと答え、マリーは兄フリッツに頼んで兵隊人形の剣を一振りもらう。
その夜、くるみ割りがマリーのもとに現われ、もらった剣でネズミの王様に打ち勝ったことを告げる。そして助けてもらったお礼として、彼はマリーを美しい人形の国へ招待する。翌朝、自分のベッドで目覚めたマリーは夢のような人形の国の情景が忘れられず、家族にそのことを話してまわるが、誰からも取り合ってもらえなかった。そうした中、ドロッセルマイヤーおじさんが甥の青年を連れて尋ねてくる。感じのいいこの青年は、マリーと二人きりになると途端に、自分がマリーに救われたくるみ割り人形だと告げ、彼女のおかげでもとの姿に戻れたのだと話す。彼はいまや人形の国の王様であり、マリーを王妃として迎えに来たのだった。 作品は、クリスマスに人形が命をもって動き出すメルヒェン物語であり、この作品に続く人形が活躍する児童文学に大きな影響を与えた[4]。 ホフマンは『黄金の壺』を発表したのちに本作品の構想をはじめ、『砂男』(1815年)とほぼ同時期に本作品を完成させており[5]、1816年12月7日、ホフマンの企画により発行されたクリスマス童話集『子供のメルヒェン』に収録された[6]。この童話には批判が多くあつまり、1816年の新聞では「誰がこれを子供に読み聞かせられようか?」「不適切な冗談によって鼻持ちならない堕落しきったものになっている」「子供たちの理解力にふさわしいか否か考慮されなかったのか」などと批評された[7]。これには当時の社会情勢として、多くの子供たちが身分制を原因とする社会的貧困の中に置かれており、この物語で描写される「立派な家で両親に見守られて幸せな暮らしをする」のは上流階級の子供たちだけだったことも原因にあげられる[8]。1819年、この物語は『ゼラーピオン同人集』にホフマンによるこれらの批評への反論とともに再録された[9]。ホフマンの原作は難解であり、現代ではドイツで発行される場合であっても大抵の場合は子供向けの本では原文によみやすく手を入れた状態で発行される[10]。 この物語はもともと、作者ホフマンが友人ユーリウス・エドゥアルト・ヒッツィヒ
解題