きけ わだつみのこえ 日本戦没学生の手記
きけ わだつみのこえ 日本戰歿學生の手記
著者学徒兵
中村克郎 ほか(編著)
発行日1949年10月20日 初版
1999年11月 岩波文庫版第1集第8刷
2003年12月 岩波文庫版第2集
2005年2月 學藝書林
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『きけ わだつみのこえ』は第二次世界大戦末期に戦没した日本の学徒兵の遺書を集めた遺稿集。1947年(昭和22年)に東京大学協同組合出版部により編集されて出版された東京大学戦没学徒兵の手記集『はるかなる山河に』に続いて、1949年(昭和24年)10月20日に出版された。BC級戦犯として死刑に処された学徒兵の遺書も掲載されている。編集顧問の主任は医師、そして戦没学徒の遺族である中村克郎をはじめ、あとの編集委員として渡辺一夫・真下信一・小田切秀雄・桜井恒次が関わった。
1963年(昭和38年)に続編として『戦没学生の遺書にみる15年戦争』が光文社から出版され、1966年(昭和41年)に『第2集 きけ わだつみのこえ』に改題された。
『きけ わだつみのこえ』の刊行をきっかけとして1950年(昭和25年)4月22日に日本戦没学生記念会(わだつみ会)が結成された。
類似した題名の映画が何本か製作されている。また、この刊行収入を基金にして、戦没学生記念像わだつみ像が製作され、京都市北区の立命館大学国際平和ミュージアムで展示されている。目次 学徒兵の遺稿を出版する際に、全国から書名を公募し、応募のあった約2千通の中から京都府在住の藤谷多喜雄のものが採用された。藤谷のそもそもの応募作は「はてしなきわだつみ」であったが、それに添えて応募用紙に「なげけるか いかれるか/はたもだせるか/きけ はてしなきわだつみのこえ」という短歌を添付した。なお、この詩は同書の巻頭に記載されている。 「わたつみ(わだつみ)」は海神を意味する日本の古語である。 『きけ わだつみのこえ』は、若い戦没者に人間としての光を当てただけでなく特に学徒兵の多くは己の学業が心ならずも頓挫し、自分が異常な状況に置かれていることを深く見つめた内容を記述しており、本来であれば平和に生きていたはずの若者が、免れようのない死と直に向き合ったとき、どのように感じるのか、ということを伝えてくる。当時の軍国主義的潮流下にあった戦陣訓世代などと呼ばれていた人々の評価を覆すものとして大きな衝撃を与えた。 原版を作成した東大協同組合出版部は、戦没者遺族が編集に携わっていることもあり、編集方針として「平和への訴え」を掲げた。編集者の一人である渡辺一夫からは「かなり過激な日本精神主義的な、戦争謳歌にも近いようなものまでも全部採録するのが公正である」との意見も出たが、その後「痛ましすぎる声はしばらく伏せたが方がよい」として意見を撤回している[1]。このような方針に対して、立花隆は『天皇と東大』(文藝春秋)でこれを左側からの「歴史の改竄」であると批判した。富岡幸一郎も『新大東亜戦争肯定論』にて「遺された言葉が、戦後の反戦平和運動のスローガンに利用された」と述べている。 ただし、後に続編として出版された『第2集 きけ わだつみのこえ』では右翼的表現や日本主義的言辞が含まれた手記も採録されている[2]。また、応募された候補作のうち不採用のものと採録されたものを比較しても内容に大きな差はなく、激しい軍国主義・愛国主義調の手記は存在しなかった[3]。むしろ当時の学生の間では概ね共通した軍国主義批判・国粋主義批判の風潮があったとされる[2]。第2集ははじめに岩波書店に出版を申し込んだが、岩波側が岩波文庫から出版するには新しすぎるとしたために、光文社のカッパブックスから出版された[4]。 このほか、『きけ わだつみのこえ』は、当時ごく少数であった高等教育を受けたインテリの文章を集めたものであり、人間本来の死ではなく、インテリの死だけを美化したのではないかとの意見や、インテリと教育を受けていない一般民衆との間には価値観の違いがあり、一般民衆の戦争観の視点に編集側が欠けているのではないかとの批判がある[5][6]。三島由紀夫は『きけ わだつみのこえ』について、「テメエはインテリだから偉い、大学生がむりやり殺されたんだからかわいそうだ、それじゃ小学校しか出ていないで兵隊にいって死んだやつはどうなる」と批判している[5]。 『はるかなる山河に』は、東大だけが大学ではあるまいとの批判を巷間から受けた[7][8]が、『きけだつみのこえ』も、誰それはどこの学校を出ているといった事柄にこだわることで成り立っているとの評価もある[8]。 上記に付随して、一部からは手記の内容を編集方針に沿うような形でに不当に改竄しているという批判がある[要出典]。実際に採録されたものの中には編集された内容のものもあり、例えば佐々木八郎のエッセイ「“愛”と“戦”と“死”」には「しかし僕の気持はもっとヒューマニスティックなもの,宮沢賢治の烏と同じようなものなのだ。憎まないでいいものを憎みたくない、そんな気持なのだ。正直な所、軍の指導者たちの言う事は単なる民衆煽動の為の空念仏としてしか響かないのだ。」と書かれているが、「軍指導者たちの言う事」という部分は原遺稿では「暴米暴英撃滅とか,十億の民の解放とか言う事」となっていた[9]。
1 名前の由来
2 評価
3 書籍の内容に関して
3.1 編集方針に関する批判
3.2 改竄疑惑
4 『きけわだつみのこえ』改変事件裁判
5 書誌情報
5.1 第1集
5.2 第2集
6 映画化作品
7 脚注
8 参考文献
9 関連文献
10 関連項目
11 外部リンク
名前の由来
評価
書籍の内容に関して
編集方針に関する批判
改竄疑惑
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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