かんだやぶそば
Kanda Yabu Soba
かんだやぶそば
(2016年4月4日撮影)
店舗概要
所在地〒101-0063
東京都千代田区神田淡路町2-10
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯35度41分49.3秒 東経139度46分7.3秒 / 北緯35.697028度 東経139.768694度 / 35.697028; 139.768694 (かんだやぶそば)
かんだやぶそばは、東京都千代田区神田淡路町2丁目にある1880年(明治13年)創業の蕎麦屋店舗。目次
1 概要
2 沿革
3 交通アクセス
4 ギャラリー
5 ギャラリー(旧店舗)
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
9 外部リンク
概要 『東京名家繁昌図絵』、「団子坂藪蕎麦・蔦屋 三輪伝次郎」、明治35年。[1]
「かんだやぶそば」は、1880年(明治13年)、浅草蔵前のそば屋「中砂」の四代目・堀田七兵衛が、神田連雀町(現・神田淡路町)にあった「蔦屋」の支店「団子坂支店・藪蕎麦」の暖簾を譲り受け開業したのが、現在の「神田藪蕎麦(かんだやぶそば)」の始まりである。その後、1906年(明治39年)、江戸から明治にかけて一世を風靡した名店「団子坂藪蕎麦・蔦屋」は、三代目・三輪伝次郎による相場の失敗により廃業に追い込まれた。廃業後の「藪蕎麦」の暖簾は、神田連雀町の「神田藪蕎麦」に受け継がれた[2]。
「神田藪蕎麦」の初代・堀田七兵衛は、長男が早死にしたため、本店を次男・堀田平二郎に継がせた。その時、既に京橋でそば屋を始めていた三男・堀田勝三には、京橋の「藪金(団子坂藪蕎麦の四天王)」という当時の有名店を買い取り、その店を持たせた。その後の、1913年(大正2年)、京橋の店が借地だったため、地主に土地の明渡しを求められ、浅草並木町に移転し開業した店が現在の「並木藪蕎麦」である[3]。
「藪御三家(かんだやぶそば、並木藪蕎麦、池の端藪蕎麦)」の一角を担う店として知られている。また、蕎麦の文化は江戸時代に始まり、江戸生れの「藪」、大阪が起源の「砂場」、信州出身の「更科」は、老舗御三家と呼ばれていた。
暖簾分けも続いており、日本各地に「やぶそば」と名が付く店が存在する。
沿革
1735年(享保20年) - 『続江戸砂子温故名跡志 5巻』、菊岡沾涼著、享保20年、に次の記述がある。
「雑司谷蕎麦切 ぞうしがや鬼子母神門前茶屋 同所 藪の蕎麦切」 ? 『続江戸砂子温故名跡志 5巻』、菊岡沾涼著、享保20年より抜粋鬼子母神の門前茶屋と、茶屋町を離れた藪の中にも蕎麦屋が一軒あったことが分かる。藪の蕎麦は御獄という字にあり、いまの雑司谷一丁目付近と思われる、竹藪が繁茂し俚俗「藪の内」と称した[4]。
1833年(天保4年) - 『慊堂日暦』、松崎慊堂著、天保4年10月、江戸後期の漢学者・松崎慊堂の日記に、「団子坂の千(駄木)蔦屋に入り蕎麦条を食ふ」という条があり、この年にすでに団子坂の「蔦屋」は営業していた。『蕎麦辞典』、植原路朗著では、「蔦屋」の創業者は下野国(現・栃木県)喜連川出身の武家・三輪氏としている[5][6]。
1854年(安政元年)8月5日 - 後の「神田藪蕎麦」初代・堀田七兵衛生まれる。
1861年(万延2年) - 『改正尾張屋板の切絵図』、「小石川谷中本郷絵図」に団子阪(坂)の名が載っている。団子坂は現在の文京区千駄木で、江戸時代からこう呼ばれていた。この坂の近くに「蔦屋」というそば屋があり、「藪そば」と呼ばれていた。もともと「やぶそば」という名は、土地の人たちがつけた俗称で、この坂の周辺には大きな竹藪があった。その竹藪に囲まれたそば屋ということから、「やぶそば」と呼ばれるようになった[7]。
*1877年(明治7年)修業していた伊藤 釧路に移住し東家開業。
1880年(明治13年) - 浅草蔵前のそば屋「中砂」四代目堀田七兵衛は、神田連雀町の「蔦屋」の支店「団子坂支店・藪蕎麦」を譲り受ける。そば屋「中砂」は、当時の蔵前には「砂場」が3軒あり、その真中の店であったため「中砂」と呼んでいて、初代堀田七兵衛は「砂場」系のそば屋だったようである。堀田家の菩提寺である豊島区北池袋にある西念寺の墓石には、〇に砂の字と、大坂屋七兵衛の字彫りがある。『東京名物志』には、東京の三大「藪そば」に、「蔦屋」、「藪中庵」、「連雀町藪蕎麦」を挙げている。
1887年(明治20年)3月5日 - 後の「並木更科」初代・堀田勝三生まれる。
1901年(明治34年) - 『東京名物志』には、当時の東京の有力そば屋9軒を挙げている。その中に「藪そば 本郷区駒込千駄木林町三輪伝次郎」が紹介されている[8]。
団子阪字藪下上に在り。都下各区に支店を有し、藪蕎麦の有名なる者先づ指を此家に屈す。名代は蒸籠にして打方最も堅く、蕎麦通の賞賛する所なり。其地亦眺望閑雅にして、庭際奇草あり、古石あり。瀟洒たる離座敷数多く、瀑布其間に在るを以て、往て三伏の苦熱をしょうする者多く、殊に菊花の季候には衆客雑沓し、空しく門外より帰る者尠なからず。
? 『東京名物志』、「藪そば 本郷区駒込千駄木林町三輪伝次郎」、明治34年刊行、より抜粋
1906年(明治39年) - 「団子坂藪蕎麦・蔦屋」は、三代目・三輪伝次郎の時に廃業。『蕎麦通』の「明治年間に廃絶した店」の一節には、明治年間の「蔦屋」の敷地の広さは1,600坪ともいわれ、そば屋とは思えない壮大な店だった[9]。
前庭に飛瀑を造ってあったので、納涼の客に振まったことは、非常なものであった。客の為に備えた百五十枚の浴衣が、常に不足をしたと言われた位?昌したものだ。それに団子坂に菊人形の盛った頃には押すな押すなの人出で、この自分のやぶは朝から晩まで人足が絶えなかった。後園一帯は孟宗竹の藪であったので、蕎麦の道具は多く竹細工を用いた。 ? 『蕎麦通』、「明治年間に廃絶した店」より抜粋
1910年(明治43年) - 堀田康一(後の三代目神田藪蕎麦)生まれる。
1913年(大正2年) - 三男・堀田勝三により浅草並木町に「並木藪蕎麦」を開業。並木町の店は、元は「団子坂藪蕎麦」の支店で「藪金(団子坂支店の四天王)」という名のそば屋だったが、初代・堀田七兵衛が譲り受けた。
1917年(大正6年) - 「並木藪蕎麦」の長男・堀田平七郎(後の二代目並木藪蕎麦)生まれる。
1923年(大正12年) - 連雀町の「連雀町藪蕎麦」は関東大震災により焼失したが、同年12月に再建された、数寄屋造りの木造2階建ての店舗である。
『食行脚 東京の巻』、 奥田謙二郎著、「菊蕎麦」[10]菊の名所と藪蕎麦で、団子坂は殊に江戸情調が深かった、藪蕎麦没落してより二拾年、菊花檀跡を絶ってより拾六年、斯くて団子坂の名は、在りし昔を、忍ぶよすがに過ぎなくなった。藪蕎麦の一門多きが中に、連雀町の支店は、衆望を負ふて、其の栄ある暖簾を、預るに至ったが、支店とは言へ此処に移ってから、既に四拾余年を経た、一廉の老舗である、評判の宜い盛りとかけの汁は、本節の上ものに、銚子の鬚田で吟製し、塩梅上手に出来て居る、其の特徴とする茶蕎麦は、只色付をしたのみで、敢えて原料が違っている訳ではない。