かはしかつみ
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加橋かつみ
出生名高橋 克己(たかはし かつみ)
別名トッポ、TOPPO
生誕 (1948-02-04)
1948年2月4日(76歳)
みずがめ座 血液型B型
出身地 日本大阪府堺市
学歴京都府立山城高等学校中退
ジャンルJ-POP
グループ・サウンズ
ニューロック
アニメソング
職業ギタリスト
ボーカリスト
シンガーソングライター
担当楽器ボーカル
ギター
活動期間1967年 -
レーベルポリドール
(1967年 - 1969年)
フィリップス
(1970年 - 1971年)
ミノルフォン
(1971年 -1979年 )
ビクターエンタテインメント
(1980年 - 1982年)
ポリドール
(1982年 - 不明)
事務所渡辺プロダクション
(1967年 - 1971年)
北島音楽事務所
(1975年 - 1979年)
共同作業者ザ・タイガース
ザ・タイガースメモリアルクラブバンド
ザ・タイガースマニア
スーパーGS
GSスペシャルバンド
フレンズ[要曖昧さ回避]
Old-J-Pops-Club
公式サイト ⇒http://www.katsumi-k.com/
著名使用楽器
ギブソン・ES-335
エピフォン・カジノ
フェンダー・テレキャスター
モズライト
トム・アンダーソン
フェンダー・ストラトキャスター'74
フェンダー・ストラトキャスター'70
フェンダー・ストラトキャスター'63

加橋 かつみ(かはし かつみ、本名:高橋 克己(たかはし かつみ)、1948年2月4日 - )は、日本ミュージシャン、音楽プロデューサーであり、ザ・タイガースの元メンバー。大阪府堺市生まれで京都府育ち。ザ・タイガース在籍時の愛称はトッポ(由来はトッポ・ジージョに似ていたから。渡辺プロダクションによる命名)。
来歴・人物
デビューまで

小学(堺市立大仙小学校)・中学(堺市立旭中学校)時代は、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}教会の聖歌隊に入り讃美歌を歌っていた[要出典]。大阪工業大学高等学校(現:常翔学園高等学校)に進学。その後、京都府立山城高等学校に転校。1965年、バンド仲間達と「サリーとプレイボーイズ」を結成。 1966年、「サンダース」のボーカリスト沢田研二を迎え「ファニーズ」と改名、大阪ジャズ喫茶「ナンバ一番」の専属バンドとなる。同年11月、渡辺プロダクションオーディションに合格し上京。
ザ・タイガース時代

ザ・タイガースのリードギター、ボーカル担当。澄んだ伸びのある高音の歌声が評価され[独自研究?]、シングル「花の首飾り」、「廃虚の鳩」やアルバムでリードボーカルを務めた。ギタリストとしての実力もあり、当時GSの頂点を極めたザ・タイガースの中に於いて、沢田研二と双璧をなす存在であった。またグラフィックデザイナーを志していたこともあり、グループの衣装をデザインするなど、バンドとして欠くことが出来ない存在だった。1982年のタイガース同窓会でのヒット曲「色つきの女でいてくれよ」でもリードボーカルを務めている。

ビートルズを原点とした音楽志向とアイドル性を併せ持ち、GSの象徴的存在といわれた[要出典]。繊細で芸術家肌、その感受性の強さゆえに誤解を受けやすい言動もあり、「ザ・タイガースのブライアン・ジョーンズ」と評するマスコミもあった。特に当時、時計の針の如く仕事に対し忠実な姿勢であった沢田研二とは、相入れないことが多く、度重なる意見の相違が不仲との報道へ繋がっていった。

リードボーカルを担当した「花の首飾り」がオリコンチャートの頂点にあった頃より、自身がアイドルという存在であることに疑問を感じ、音楽を通じて世界へメッセージを発信したいという思いが強くなる[要出典]。 当時画期的だったコンセプトアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』製作は加橋の意向を反映したもので、テーマは「誕生、平和、友情、恋、祭り、運命、兵士、母、死、英雄、人類の滅亡、再出発」、同時期に実施されていた明治チョコレートとのタイアップ・キャンペーン『天地創造ものがたり』のテーマである旧約聖書とリンクした内容になっていた。 だが、アルバム完成後も、加橋の疑問が払拭されることはなかった。 各プロダクションがGSを粗製濫造。音楽的にもビジュアル的にもGSのレベルは低下。更に渡辺プロによる「アイドル戦略」の中において、高い音楽志向を持ち、感受性の強い[独自研究?]加橋かつみは、GSのあり方やプロダクションの対応に限界を感じ、グループ脱退を考えるようになる。森本太郎が「トッポが退団したいと言っていることを聞いた」という記録を、1968年5月頃残している。

人気が頂点に達していたこの頃、沢田と双璧をなす加橋かつみを失うことは出来ず、渡辺プロ側は懐柔策として、加橋の意向を反映し、メンバーの自作曲も含むアルバム『ヒューマン・ルネッサンス』の制作を進める。アルバム完成後、再び加橋は、退団へと傾く。自分達のバンドであったタイガースが、渡辺プロによって操られ、その根底に渡辺プロの副社長・渡辺美佐の沢田研二への愛情があることに反発して[要出典]、自らの脱退を最終的に決意する。渡辺美佐は、沢田研二以外のメンバーには興味がなく、レストランキャンティで挨拶した加橋に「あなた誰?」と言い放ったという逸話がある。「花の首飾り」、「廃虚の鳩」がヒット中の逸話である。

1969年1月の14日から20日、ザ・タイガースは日劇ウエスタン・カーニバルに出演、ヒッピーをイメージした衣装で登場し「青い鳥」、「朝に別れのほほえみを」、「帆のない小舟」、「割れた地球」の4曲を演奏する。全てがアルバムからのピックアップ、情報が圧倒的に乏しかった時代、彼等が意図したステージはファンに受け入れられるには、多くの時間が必要だった。 森本太郎の日記には、加橋脱退に関するミーティングが重ねられたと思われる記述が増え、加橋脱退を3月上旬と定めた上での、本人やメンバーはもちろん、渡辺プロ総掛かりでの加橋かつみ失踪、除名、ザ・タイガースへの岸部シロー加入、新生タイガース誕生というシナリオがあった可能性も示唆されている。

1969年3月5日、加橋は渋谷・斉藤楽器でのレッスン中にスタジオを離れ戻らなかった。マスコミは 失踪 と報道。 ザ・タイガースは渡辺プロダクションが箱根に所有する別荘に篭り、活動を休止する。 加橋は、ザ・タイガースを脱退、後任にはベースギター担当である岸部おさみ(現:岸部一徳)の実弟、シローが決定する。
ザ・タイガース脱退劇

自発的な失踪と発表されたが、渡辺プロ主導の脱退劇だったことが発覚し、渡辺プロは謝罪会見を開く。GSの象徴的存在であり、人気と実力を兼ね備えた加橋かつみを大きな理由もなく失うことで、ザ・タイガースの人気が下降することを恐れた渡辺プロが、次なる加橋の受け入れ先としてフィリップス・レコードとの契約を取り持った上で「加橋かつみの自発的失踪」という体裁を繕おうとしたものだった。失踪報道が流された頃、渡辺プロは加橋を母親と共に事実上ホテル拘束、外部と連絡を取ることを許さなかった。この失踪劇は、加橋と同じ様な疑問や思想を抱き、加橋の一番の理解者でもあった瞳みのるにも影響を与え、他のメンバーとの間に亀裂を生む原因となる。
渡仏・ソロアルバム

加橋かつみは渡仏し、アルバム『パリ1969』を製作。 ザ・タイガース脱退は3月、このアルバムレコーディングは4月に行われている。アルバムでプロデュースのクレジットがある川添象多郎は、著名人とも関わりの深いレストラン「キャンティ」及びブティック「ベビー・ドール」のオーナー・川添浩史の息子・川添象郎であるが、実質的には浩史が、フランスでポップ・ミュージックのレーベル「バークレー・レコード」を経営する友人エディ・バークレーにレコーディングの機会を与えてくれるように依頼したと、『キャンティ物語』に記されている。アルバムの作家も、「キャンティ」の人脈で占められており、安井かずみ村井邦彦山上路夫と、ザ・タイガースのレコードに関わっていた面々はもちろん、かまやつひろしも参加し、当時、ザ・スパイダースのファッションや音楽のアドバイザー的存在でもあったレーサー・福沢幸雄の妹・福沢エミの詩も取り上げられ、シングルカットされた「花の世界」、「つばさ」ラストに収録されている「水の輪」など、"加橋かつみ"でしか描き得ない、鮮やかな彩の感受性豊かな心の世界を表現している。


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