かげろふの日記
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かげろふの日記
作者
堀辰雄
日本
言語日本語
ジャンル中編小説
発表形態雑誌掲載
初出情報
初出『改造1937年12月号(第19巻第14号)
刊本情報
出版元創元社
出版年月日1939年6月3日
ウィキポータル 文学 ポータル 書物
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『かげろふの日記』(かげろうのにっき)は、堀辰雄中編小説。全8章から成る。平安時代女流日記蜻蛉日記』を原典にした作品である[1][注釈 1]。愛されることはできても、愛することを知らない男に執拗にを求めつづけ、その不可能を知るに及び、せめてその苦しみを男に解らせようとするが、遂にはそれにも絶望し、自らの苦しみの中に一種の慰藉を求めるにいたる不幸な女の物語[2]。堀が日本古来の王朝女流文学に深い傾倒を示した作品群の一作目にあたり、リルケ体験を通して日本の古典文学を現代に蘇らせて、「する女の永遠の姿」を描いている[3][4][5]。また、『聖家族』などに見られる「苦しめ合う愛」のモチーフも見受けられる作品でもある[6]
発表経過

1937年(昭和12年)、雑誌『改造』12月号(第19巻第14号)に掲載された。単行本は1939年(昭和14年)6月3日に創元社より刊行された[1]。刊行の際に若干の改稿がなされ、初出の発表誌では、冒頭に「無名の女」から「***様」に宛てた、600字ほどの献げる言葉が置かれていたが、単行本刊行の際に削除されている[1]

なお、続編(「ほととぎす」)は、1939年(昭和14年)、雑誌『文藝春秋』2月号(第17巻第3号)に掲載され、上記の単行本に同時収録された[1]。のち1946年(昭和21年)7月15日に養徳社より刊行の『曠野抄』の収録された[1]
作品背景

堀辰雄は、フランス文学の伝統を日本の近代文学に加味したとされる作家であるが、その一方で、日本古来の王朝文学にも深い傾倒を示し、一連の王朝ものと呼ばれる作品群を残した[4]。信濃追分(追分宿)の油屋旅館にこもって書かれた『かげろふの日記』は、その第一作にあたり、平安時代女流日記蜻蛉日記』を原典として創作された作品である[1][4][6][注釈 2]

堀は1936年(昭和11年)の11月に『風たちぬ』の「冬」の章を書いた後、最終章が書けずに信濃追分で越冬し、翌1937年(昭和12年)春から、『更級日記』、『伊勢物語』、『蜻蛉日記』や、折口信夫の『古代研究』を読みながら、『かげろふの日記』を9月から書き始めた[5][7]。11月には折口信夫の講義を聴講するなどし、11月中旬に脱稿された[7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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