お蔭参り
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「お伊勢参り」はこの項目へ転送されています。テレビ番組については「お伊勢参り (テレビ番組)」をご覧ください。
歌川広重「伊勢参宮・宮川の渡し」

お蔭参り(おかげまいり)は、江戸時代に起こった伊勢神宮への集団参詣。お蔭詣で(おかげもうで)とも。数百万人規模のものが、およそ60年周期(「おかげ年」と言う)に3回起こった。お伊勢参りで抜け参りともいう。

お蔭参りの最大の特徴として、奉公人などが主人に無断で、または子供が親に無断で参詣したことにある。これが、お蔭参りが抜け参りとも呼ばれるゆえんである。大金を持たなくても信心の旅ということで沿道の施しを受けることができた時期でもあった。

江戸からは片道15日間、大坂からでも5日間、名古屋からでも3日間、東北地方からも、九州からも参宮者は歩いて参拝した。陸奥国釜石岩手県)からは100日かかったと言われる。

「お蔭参り」の語源は諸説あり、天照大御神の「おかげ」で参詣を果たすことができたためとする説、天照大御神の「おかげ」で平和な生活を送ることができることに感謝をするためのお参りであるからとする説、道中での施行(せぎょう)など様々な人の「おかげ」で参宮を果たすことができたためとする説などがある[1]。また、「お蔭参り」という呼称が用いられ始めたのは、「明和のお蔭参り」以降である[1]
伊勢参り

伊勢神宮は、古代には神郡神田神戸からの神税など国家的な経済基盤により支えられており、国家祭祀の斎場として「私幣禁断」の制度が敷かれ、個人的な参拝はできないこととされていた[2]。しかし、平安時代に入ると律令制の弛緩と荘園制度の成立に伴い、神税など国家的な経済基盤が揺らぎ、神宮は荘園に対して課税を行い、領地の寄進(御厨)も受けるようになった[3]。この際に、神宮の権禰宜らは御師として荘園の在地領主層に対して神宮への祈祷を行ったり、神宮の神威を説くなどして伊勢神宮の信仰を広げたため、伊勢信仰はまず上級武士層に広がった[3]。鎌倉時代中期以降には、元寇における神風の伝承が広がったこともあり、次第に御家人地頭級武士層へも広がり[4]、その農村への影響力から農村の中下層にも徐々に伊勢信仰が浸透し[5]、鎌倉時代後期には起請文に天照大御神の名が出てくる[6]など、伊勢信仰は民衆にも広がった。ただ、鎌倉時代末の時点では、参宮自体は伊勢、尾張、三河、美濃などに集中し、未だ全国的な広がりを見せなかった[7]

中世後期に入ると、戦乱などの影響もあり、神宮の社領も含め荘園制が崩壊に向かい、神宮が財政的危機に陥ったことから、御師の活動はさらに本格化した[7]。神宮は、御厨からの収益を収納することが困難となり、参宮者の祈祷料や宿泊料が重視されるようになったため、御師は土地関係を離れて広く人々との師檀関係の形成を広げてゆくようになり、その活動内容も、従来の社領経営などの業務から、参宮に際して宿泊や観光案内を提供するなどの直接的な業務が中心となった[8]。これらのことから室町時代には参宮量も増加し、特に経済的に発達していた畿内の地区では中小農民層の参宮も見られ、備中周防土佐[要曖昧さ回避]などの中間地帯からも富裕農民層の参拝が見られるようになった[9]。御師は布教に際して個人祈願を満たす現世利益的霊験よりも、伊勢神宮の国家神的性格を強調して喧伝し、室町時代の辞書『?嚢鈔』には「和国は生を受くる人、大神宮へ参詣すべき事勿論…」と記され、国家鎮守神である大神宮には国民は必ず詣るべきとする観念が広がった[10]

江戸時代以降は中世の関所が撤廃されて五街道を初めとする交通網が整備され、乗り物や輸送組織が発達したほか、治安の改善もあって参宮の環境が改善し、さらに広範囲かつ広い階層の参宮が行われるようになった[11]。また、道中での遊興施設や宿屋の充実などもあり、伊勢参りは観光の目的も含むようになった[12]。元禄期以降は、の品種改良や農業技術の進歩に伴い農作物(特に、江戸時代の税の柱であった米)の収穫量が増えて、農民でも現金収入を得ることが容易になり、農村にも貨幣経済が浸透したことや、分家の自営農民としての独立が進んで戸数が増加したことによる身分的な解放もあり、全国的かつ広い階層の民衆が参拝するようになった[13]。参宮者の数は、江戸初頭で年間2、3万人があったと推定され[14]足代弘訓の『御師考証』によれば江戸中期には年間20万から40万人の参宮があった[15]。このような伊勢参りの拡大の中で、現代の旅行ガイドブックや旅行記に相当する参宮道中記も発売された。これらの道中記には、『新撰伊勢道中細見記』のように、参宮を家内安全や所願成就を祈るための個人祈願のためのものとする記述もある[16]一方で、『伊勢参宮細見大全』のように、「伊勢神宮は国家を守る神であり、日本に住む人々はことごとくその恩恵を蒙っているのだからその感謝のために参拝しなければならない」として国家鎮守神的側面を強調する記述も見られた[17]。また、『伊勢太神宮続神異記』などの庶民向けの書物では、障害者、貧困者、女性や子供などの社会的に弱い立場の人々が、神の利生を受けて願いを叶える話が多く集められており[18]、そのような現世利益的な神の霊験を信じて参宮する者も多かった[19]。.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ウィキソースに浮世の有様の原文「御蔭参りせし子供等拘引かせし人買船、召捕られぬる由」があります。

また、江戸時代も中頃になると、農業技術の進歩により、農家の中に現金収入を得られる者が増え、新たな知識や見聞、物品を求めて旅をしようと思い立つ者も現れるようになったが、農民の移動に規制があった江戸時代に旅をするにはそれなりの理由が必要で、その口実として伊勢神宮参詣という名目が使われるようにもなった。当時、他藩の領地を通るために必要不可欠な通行手形の発行には厳しい制限があったが、伊勢神宮参詣を目的とする旅についてはほぼ無条件で通行手形を発行してもらえたためである(この他にも、善光寺参詣や日光東照宮参詣など、寺社参詣目的の旅についてはおおむね通行手形の発行が認められていた。通行手形の発行は、在住地の町役人村役人など集落の代表者または菩提寺に申請した)[注釈 1]

このように、近世期には伊勢参りが活性化したが、一方で女性や子供、被官名子など地主に隷属した農民や、丁稚小僧、下男下女らの商家の奉公人層は厳しい移動の制限があった。しかし当時、たとえ親や主人、家長に無断でこっそり旅に出ても、伊勢神宮参詣に関しては、参詣をしてきた証拠の品物(お守りお札など)を持ち帰れば、おとがめは受けないことになっていたため、彼らも「抜け参り」によって伊勢神宮に参詣することが可能であった[20]。このような抜け参りに対する例外的な寛容性は、中世以来の、国民は必ず伊勢神宮に参詣するべきという参宮の国民的義務観が近世に入りさらに徹底されたこと[20]や、伊勢参りを止めた主人に対する神罰が強調される[21]などしたことによるもので、子供や奉公人が伊勢神宮参詣の旅をしたいと言い出した場合には、親や主人はこれを止めてはならないとされていたのである。また、大名も自領領民の伊勢参りには比較的寛容であり[22]、しばしば参宮者の人数制限を行うことはあったが、領主や富豪層が伊勢参宮者に対して道中で食事や宿の提供を行うことも多く見られた[23]。このためわずかな負担で伊勢神宮への参詣が達成され得たことも、下層階級者の参宮を可能なものとする要素であった。このような抜け参りが群発し、全国的な規模となって爆発的な参宮者となったものが、周期的に訪れた「お蔭参り」であった。「豊饒御蔭参之図」に描かれるお札降下の様子。

また、庶民の移動には厳しい制限があったといっても、伊勢神宮参詣の名目で通行手形さえ発行してもらえば、実質的にはどの道を通ってどこへ旅をしてもあまり問題はなく、参詣をすませた後には大坂などの見物を楽しむ者も多かった[24]


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