お笑いスター誕生
[Wikipedia|▼Menu]

お笑いスター誕生!!
番組の公開収録が行われていた後楽園ホール
ジャンルお笑いオーディション番組
企画井原高忠
演出赤尾健一
出演者山田康雄
中尾ミエ
ほか
製作
プロデューサー中島銀兵
制作日企(制作協力)
製作日本テレビ(製作著作)

放送
放送国・地域 日本
放送期間1980年4月12日 - 1986年9月27日
放送時間土曜 12:00 - 13:00
(第1回 - 1985年9月)
土曜 17:30 - 18:30
(1985年10月 - 最終回)
テンプレートを表示

『お笑いスター誕生!!』(おわらいスターたんじょう)は、1980年4月12日から1986年9月27日まで日本テレビ系列局(一部の系列局を除く)で放送された日本テレビ製作のお笑いオーディション番組。略称は「お笑いスタ誕」(おわらいスタたん)。同じく日本テレビ系列局で放送されていた歌手オーディション番組『スター誕生!』の兄弟番組である。
概要[ソースを編集]

司会は俳優・声優の山田康雄と歌手の中尾ミエが進行を務めた。

「お笑いスタ誕」の演出を務めた赤尾健一によると「面白いのにいまいち売れていないプロの芸人や、才能があるのにチャンスのないアマチュアを押し上げたい」との考えにより番組が企画された[1][2]

お笑いオーディション番組とはいえ正統派のオーディションであったため、歌手オーディション番組である『スター誕生!』(兄弟番組)や、読売テレビの『全日本歌謡選手権』とともに実力勝負が要求されていた。厳正な審査ならびに審査員による辛口批評が行われていたのが特徴である。

過去の類似番組では、面白くない場合は参加者のネタの途中にどん帳が下ろされるなどの演出が取られ、その時点で強制終了となったとのこと。しかし、「お笑いスタ誕」ではネタを止めず最後までやらせた[1][2]

基本的には視聴者参加であるが、『全日本歌謡選手権』同様「プロアマ合同」である。出場者には修行中である大物芸人の弟子がかなり出場していた。本番組でチャンピオンとなり、その後ブレイクしたお笑いタレントにはとんねるずウッチャンナンチャンがいる。

参加者たちのネタは、漫才・コント・漫談・手品・ものまね・ひとり芝居というように様々なものが披露された。1980年7月5日にB&Bが初代グランプリに輝き、11.2%と番組初の視聴率2桁を取ったことをきっかけにその後視聴率が上がり、一部メディアでは「『お笑いスタ誕』が(1980年代前半の)漫才ブームの火付け役となった」とも言われている[1][2]

番組収録は、1984年2月までは山野ホールに、その後は後楽園ホールに一般観覧客を招いて行っていた。いずれも使用できなかった時は、蒲田の日本電子工学院ホールが使用された。
放送時間[ソースを編集]

土曜 12:00 - 13:00 (1980年4月12日 - 1985年10月12日

土曜 17:30 - 18:30 (1985年10月19日 - 1986年9月27日)

概要・変遷[ソースを編集]
グランプリシリーズ(1980年 - 1983年)[ソースを編集]

厳しい予選を勝ち抜いた挑戦者が、「10週勝ち抜きグランプリ」(グランドチャンピオン)を目指す。

なお、3週勝ち抜きで「銅賞」、5週勝ち抜きで「銀賞」、8週勝ち抜きで「金賞」が獲得できる。挑戦者はプロ・アマを問わず毎週5組程度が出演。

番組の最後に審査結果が挑戦者順に発表される。挑戦者は緊迫感のあるティンパニロールと不協和音が鳴りながら舞台中央に設置された回転するカプセル風のセットに入って登場して正面を向いたところで止まり、合格ならファンファーレ(合格・グランプリともに同じ)が鳴り響くとともにドアが開いて舞台に再登場できるが、不合格なら間の抜けた音楽が流れカプセルが回転し退場[注 1]。同時に裏から出てくる次の挑戦者の審査結果の発表へ移っていく。なお、不合格となったら最低2か月間は再挑戦できず[2]、再挑戦する場合は不合格となった週(ただし、2週勝ち抜き以降)から挑戦する形だった。
ゴールデンルーキー賞シリーズ(1980年 - 1982年)[ソースを編集]

グランプリシリーズで銀賞・金賞を獲得しながらあと一歩グランプリに届かなかった参加者を対象にした大会で、期間中(3か月 - 半年を1シリーズ)の得点累計で優勝者を決定。第1回はギャグ・シンセサイザー、第2回はアゴ&キンゾー、第3回はファニーズが優勝した。

審査結果発表はグランプリシリーズ同様、挑戦者が舞台中央に設置された回転するカプセル風のセットに入って登場するが(BGMは異なる)、いずれもドアが開いて舞台に再登場し、そこからパタパタ式表示板で得点を発表するのが特徴。全員の得点が発表されて審査員のコメントの後、全挑戦者の累計得点順に表示板が並べ替えられて終了。
サバイバルシリーズ(1983年)[ソースを編集]

ゴールデンルーキー賞シリーズをリニューアル。グランプリシリーズであと一歩グランプリに届かなかった20組を対象に、勝ち抜きトーナメント形式で優勝者を決定した。優勝はキモサベ社中
オープントーナメント サバイバルシリーズ(1984年 - 1986年)[ソースを編集]

前述のサバイバルシリーズを、オープン参加に移行。25組を対象に勝ち抜きトーナメント形式で優勝者を決定する。毎週5組(決勝のみ4組)が登場し、審査員10名による得点累計の上位者(1回戦3組(25→15)、2回戦3組(15→9+敗者復活1組)、準決勝2組(10→4)、決勝1組。)が勝ち上がる。優勝賞金は100万円。計7回行われた。優勝者は下記参照。

審査結果発表はゴールデンルーキー賞シリーズ同様、挑戦者全員がカプセルから舞台に再登場し(BGMはゴールデンルーキー賞を若干短縮したもの)、そこからドラムロールとともに電光掲示板(棒グラフ)で得点を発表する。全員の得点発表後、中尾ミエの「さぁ?、誰が落ちたかなっ?」の掛け声で、グランプリシリーズの不合格時と同じ間の抜けた音楽が流れ、同時に電光掲示板にある不合格者の名札がひっくり返される。決勝では挑戦者4組の得点が一斉に発表され、最高得点を獲得した1組が優勝の栄冠に輝く(優勝決定のファンファーレは当シリーズ独自のもの)。
激突!!団体戦シリーズ 爆笑紅白大合戦(1984年 - 1986年)[ソースを編集]

オープントーナメントサバイバルシリーズと交互に放送されていた、当番組唯一の団体戦。24組の参加者が紅組と白組に分かれ、各自2本ずつのネタを披露し、総得点で勝敗を争った。紅組はひびきわたる、白組はミスター梅介がキャプテンを務めた。優勝チームには60万円(最終シリーズでは90万円)、最優秀個人賞には30万円、優秀個人賞2組には各5万円が贈られた。4回実施したが4回とも白組の勝利だった。
グランプリ決定時の演出(グランプリシリーズ)[ソースを編集]

グランプリの懸った審査結果発表の際、山田、中尾が「さあ!!グランプリです!!どうぞ?っ!!」と言い、ステージが暗くなり、挑戦者の乗っているカプセルにスポットライトが当たる。緊迫感のあるティンパニロールと不協和音が鳴り終わってカプセルが止まり(ここまではグランプリ以外も)、グランプリが決定した瞬間には、ファンファーレ(合格・グランプリともに同じ)が鳴ってセットの電飾が光る。ステージが明るくなってカプセルから出る時に天井から大量の紙吹雪が降り、ファンからの紙テープ花束による祝福を受けた。さらに出場者の一部からグランプリ(優勝)を決めた瞬間、胴上げされるユニットもいた。

なお、テレビ画面には、「おめでとう!!グランプリ獲得(挑戦者名)!![注 2]」の字幕スーパーが画面一杯に出る。そして表彰の際、審査委員長の桂米丸から賞状とゴールデントロフィー(銀賞、金賞も同様。銅賞はトロフィーのみで表彰式はない)が授与された。

他のシリーズも優勝すると、同様の演出となる。
挑戦者に対するテロップ表示(グランプリ以外)[ソースを編集]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:177 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef