お白石持
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.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}画像提供依頼:奉曳(川曳・陸曳)の様子、白石奉献(御白石を奉納する様子)の画像提供をお願いします。(2013年11月)

お白石持(おしらいしもち)またはお白石持行事(おしらいしもちぎょうじ)は、神宮式年遷宮を構成する祭事の1つ。式年遷宮によって新しく建設された伊勢神宮の正殿の敷地に、白い石を敷き詰める行事である。伊勢の「白石持ち」行事(いせのしらいしもちぎょうじ)の名称で、日本国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択されている[1]

御木曳と同じく一般大衆が参加する[2]。一般の人が正殿を間近に見ることのできる唯一の機会でもある[2]
概要

伊勢神宮の正殿のある御敷地(みしきち)には、白い石(御白石)と黒みを帯びた石(清石)の2種類の石が敷き詰められているが、御白石は20年に1度の式年遷宮の際に取り替えることになっている[2]。そして、新しい御白石を旧神領である伊勢在住の住民(旧神領民)と日本全国からの公募で選ばれた人々(特別神領民)が御敷地に奉献する行事を「お白石持行事」と呼ぶ[2]。従来、お白石持の奉仕は旧神領民の特権とされていた[3]

奉仕者はまず、宮川の川原で白い石を拾い集めておく[2]。集めた白石は、内宮へは川曳・陸曳(おかびき)で、外宮へは陸曳で神域へ運び込む[2]。そろいの法被を着て祓いを受けた奉仕者は、新しい正殿の周りに御白石を敷き詰めていく[2]

御白石を敷き詰める意味として、が清浄感を表す色であると同時に、白い石を清浄な河原へ行って集めることで、行事に神聖性を持たせているのではないだろうか、と櫻井治男は述べている[4]
日程

お白石持は、内宮・外宮の新しい正殿がほぼ完成した時点で挙行される[5]。第60回(1973年=昭和48年)は、内宮のお白石持が1973年(昭和48年)8月18日から8月23日、外宮のお白石持が同年8月25日から8月30日までの間に行われた[6]

第62回(2013年=平成25年)の陸曳は、以下の日程で行われた[7]。内宮のみで行われる川曳は7月26日7月27日の2日間、旧神領民により執り行われた[7]

奉献団内宮外宮
旧神領民7月28日 - 8月11日日曜日8月4日除く)8月17日 - 9月1日の金・土・日曜日
特別神領民7月27日 - 8月12日の金・土・日・月曜日8月18日 - 9月1日の金・土・日・月曜日

奉献団

お白石持に奉仕する団体を奉献団という。奉献団は旧神領の各大字から1団体が原則であるが、分村や枝郷の設置、人口増などにより複数の奉献団を有する町・大字もある[8]。第56回(1889年=明治22年)は83団体、第57回(1909年=明治42年)は77団体、第58回(1929年=昭和4年)は69団体、第60回(1973年=昭和48年)は78団体が奉仕した[9]。これらの旧神領民による団体のほかに、第56回(1889年)は個人奉献34件、小俣村城田村などから43件の奉献、第60回(1973年)は「一日神領民」による奉献団305団体があった[10]

奉献団の名称は地名を冠したもののほか、青年会の雅号を付けたもの、地域の歴史や名所の名を反映したものなどさまざまである[11]。第56回(1889年)は、地名以外を用いた団体は存在しなかった[8]。第62回(2013年=平成25年)の奉献団で参加者数が最大であったのは、船江神習組奉献団で約6,000人が参加した[12]
衣装

江戸時代の古書には、衣装に関してほとんど記載されていない[13]。衣装に関する数少ない記録である『寛政遷宮物語』は10代の女子10人ほどが金色の風折烏帽子をかぶり、単衣に薄手の狩衣を着て、を貼った桶に御白石を入れて奉納した、と記している[14]。これは謡曲松風』にちなんだ衣装であり、単に装飾が派手になったことを示すだけでなく、当時の伊勢庶民の教養の高さをも窺うことができる一件である[15]。ただしこれは特殊事例と考えられている[13]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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