お白石持
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}画像提供依頼:奉曳(川曳・陸曳)の様子、白石奉献(御白石を奉納する様子)の画像提供をお願いします。(2013年11月)

お白石持(おしらいしもち)またはお白石持行事(おしらいしもちぎょうじ)は、神宮式年遷宮を構成する祭事の1つ。式年遷宮によって新しく建設された伊勢神宮の正殿の敷地に、白い石を敷き詰める行事である。伊勢の「白石持ち」行事(いせのしらいしもちぎょうじ)の名称で、日本国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択されている[1]

御木曳と同じく一般大衆が参加する[2]。一般の人が正殿を間近に見ることのできる唯一の機会でもある[2]
概要

伊勢神宮の正殿のある御敷地(みしきち)には、白い石(御白石)と黒みを帯びた石(清石)の2種類の石が敷き詰められているが、御白石は20年に1度の式年遷宮の際に取り替えることになっている[2]。そして、新しい御白石を旧神領である伊勢在住の住民(旧神領民)と日本全国からの公募で選ばれた人々(特別神領民)が御敷地に奉献する行事を「お白石持行事」と呼ぶ[2]。従来、お白石持の奉仕は旧神領民の特権とされていた[3]

奉仕者はまず、宮川の川原で白い石を拾い集めておく[2]。集めた白石は、内宮へは川曳・陸曳(おかびき)で、外宮へは陸曳で神域へ運び込む[2]。そろいの法被を着て祓いを受けた奉仕者は、新しい正殿の周りに御白石を敷き詰めていく[2]

御白石を敷き詰める意味として、が清浄感を表す色であると同時に、白い石を清浄な河原へ行って集めることで、行事に神聖性を持たせているのではないだろうか、と櫻井治男は述べている[4]
日程

お白石持は、内宮・外宮の新しい正殿がほぼ完成した時点で挙行される[5]。第60回(1973年=昭和48年)は、内宮のお白石持が1973年(昭和48年)8月18日から8月23日、外宮のお白石持が同年8月25日から8月30日までの間に行われた[6]

第62回(2013年=平成25年)の陸曳は、以下の日程で行われた[7]。内宮のみで行われる川曳は7月26日7月27日の2日間、旧神領民により執り行われた[7]

奉献団内宮外宮
旧神領民7月28日 - 8月11日日曜日8月4日除く)8月17日 - 9月1日の金・土・日曜日
特別神領民7月27日 - 8月12日の金・土・日・月曜日8月18日 - 9月1日の金・土・日・月曜日

奉献団

お白石持に奉仕する団体を奉献団という。奉献団は旧神領の各大字から1団体が原則であるが、分村や枝郷の設置、人口増などにより複数の奉献団を有する町・大字もある[8]。第56回(1889年=明治22年)は83団体、第57回(1909年=明治42年)は77団体、第58回(1929年=昭和4年)は69団体、第60回(1973年=昭和48年)は78団体が奉仕した[9]。これらの旧神領民による団体のほかに、第56回(1889年)は個人奉献34件、小俣村城田村などから43件の奉献、第60回(1973年)は「一日神領民」による奉献団305団体があった[10]

奉献団の名称は地名を冠したもののほか、青年会の雅号を付けたもの、地域の歴史や名所の名を反映したものなどさまざまである[11]。第56回(1889年)は、地名以外を用いた団体は存在しなかった[8]。第62回(2013年=平成25年)の奉献団で参加者数が最大であったのは、船江神習組奉献団で約6,000人が参加した[12]
衣装

江戸時代の古書には、衣装に関してほとんど記載されていない[13]。衣装に関する数少ない記録である『寛政遷宮物語』は10代の女子10人ほどが金色の風折烏帽子をかぶり、単衣に薄手の狩衣を着て、を貼った桶に御白石を入れて奉納した、と記している[14]。これは謡曲松風』にちなんだ衣装であり、単に装飾が派手になったことを示すだけでなく、当時の伊勢庶民の教養の高さをも窺うことができる一件である[15]。ただしこれは特殊事例と考えられている[13]

第56回(1889年=明治22年)は奉献団によって異なり、服装任意とする団もあれば、揃いの衣装を用意する団もあり、揃いの衣装とする団では木綿法被または浴衣を着用し、麦わら帽子をかぶる場合が多かった[16]。第57回(1909年=明治42年)の場合は浴衣が最も多く、次が白衣であり、御木曳のときに着用した衣装をそのまま使う団もあった[17]

第60回(1973年=昭和48年)の衣装は、男性の場合、法被・白いズボン・白い靴、女性の場合、団名入りのたすきを用いた[18]。第62回(2013年=平成25年)も白い衣装を着用して臨む場合が多く、ユニクロ伊勢店では白のボトムスが店頭から消えるほどの売り上げを記録した[19]
次第
奉献の準備お白石奉安所(第62回=2013年、伊勢市桜木町)

奉仕者である旧神領民はまず、奉献団単位で宮川へ行き、御白石を集める[5](お白石拾い[20])。御白石は伊勢市内の宮川の河原で拾い集めるのが基本であるが、それだけでは足りない場合があり、伊勢市より上流の度会町棚橋や、櫛田川流域の松阪市中万町まで集めに行く奉献団もある[21]。集める御白石は、白ければよいというわけではなく、子どもの握りこぶし大、光沢と透明感のある石英、適度に角ばっているものが良いとされる[20]。集めた御白石は各町・大字の神社などの清浄な地で保管しておく[5]

お白石持の年の3月から6月の間に奉曳車の試し曳を行う[20]。お白石持が近付くと、奉献団単位で二見浦へ行き心身を清めるとともに、お白石持の無事を祈願する[5]。これを「浜参宮」と言い、揃いの衣装を身に付けて臨む[5]。浜参宮は二見興玉神社で行う[22]
奉曳御白石の奉曳(62回=2013年、内宮)

各奉献団は所定の日に宮域の所定の位置まで御白石を運び込む[5]。奉献日程が先に決まり、その次に各奉献団の奉献日・時刻が代表会議の場で、抽選により決定する[23]

御白石はに入れ、奉曳車に積み込み、綱で引っ張って宮域まで運搬する[5]。奉曳の前にを持った青年および子どもの木遣子(きやりこ)が木遣歌を歌い、奉献団を勢い付ける[24]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:39 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef