おまけ
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おまけ(御負け)とは、ある商品を購入した際に、その商品の価格を下げたり、サービスとして追加で物品をつける行為、あるいは、そのサービスでつけた物品自体のことを言う。また、挨拶や言葉遣いなどの商品に対する付加価値がないセールスとしての行為をおまけと分類することもある[1]
概説

おまけの語源は「御負け」の文字通り、店員が客との駆け引きに負けて値を下げる行為を指す言葉であったが、のちに商品以外の物品を追加する行為なども言うようになった[2]。しかし、おまけの語が全国的に使用される様になった明確な時期などは分かっていない。

大正時代に縁日で売られていたトコトンアメの口上に「もうひとつおまけ、トコトンアメ」という言葉があり[3][4]、その一方で戦前の広辞林辞苑[5]には載っていない[6]ことから、上方の商人で使われていた言葉が、グリコキャラメルの知名度とともに、全国に広がったと分析する研究もある[6]

商品におまけとして景品を付ける事がある。ビックリマンシリーズに代表されるように本来はおまけとして付加されたものが射幸心を煽り爆発的なブームを発生させ、おまけの収集が目的化した例も見られる。
値引きとしてのおまけ

値引きとしてのおまけとしては、商品を量り売りで売る際に、一度双方が合意した量にさらに少量を追加するケースや、それから派生して価格そのものを割り引くケースがある[7]

この値引きの起源として誓文払いが挙げられる[8]北原照久は商売の駆け引きで嘘をついた罪を祓う行事である誓文払いの前後に商店が大安売りをする風習があり、この文化から、値引き商法が発達し、おまけの文化が発達したと推測している[8]

一方、他の物品を追加でつける行為としては、店舗で物品を購入時に会計後に「サービス券」を渡されたり、スタンプカードにスタンプやポイントもらったりする場合がある。これらは、消費者がそのポイントを溜めておまけを受けるかどうかを選択することから、自己選択型の価格差別と呼ばれるものである[9]。交換対象によっては後述のサービスで付く物品としてのおまけにも分類される。
サービスでつける物品缶ビールに「お茶漬け海苔」。メーカー・問屋・小売店、どの時点の判断かは不明。ドラッグストアにて。

何らかの商品やサービスを購入した際に何らかの物品がついてくることがある。この物品のこともおまけという。このおまけの形態も、商品に添付される場合、商品に添付されるポイント[※ 1]やあたり券[※ 2]などを交換する場合などが存在する[10]
歴史
売薬版画

本来の商品に何らかの物品を追加して販売した早い事例として、江戸時代富山の薬売りが、お得意様に、売薬版画日用品をサービスとして置いていった記録がある。当時は、おまけの名でなく「進物」「土産物」と呼ばれていた[11]。これらのうち、浮世絵版画から派生した売薬版画は、カラーの印刷物が珍しい時代には需要も高く、さらに、配布する側にとっても軽量であったため、江戸時代から昭和の初期まで、長期に渡り利用されてきた[12]。昭和の初期になると石版印刷が、そして活版印刷が登場すると、売薬版画は廃れた。明治時代後期からは富山で流行っていた紙風船も、おまけとして使用されるようになった[13]
タバコカード詳細は「シガレットカード」を参照

19世紀後半にアメリカ紙巻きたばこの包装の強度を保つために、各種のイラストの描かれたカードがタバコに同封されるようになった。このカードには野球選手、女優、世界の風俗などが使用されていた[14]

明治維新を迎えた日本でも、村井吉兵衛岩谷松平が紙巻タバコの販売を始め、村井は海外のタバコカード[15]を輸入し「サンライス」「ヒーロー」におまけとして封入した[14][16]。このカードの封入により村井のタバコは爆発的に売れるが[14]、カードを目的に子供が喫煙をすることが問題となり未成年者喫煙禁止法が制定される[16]。更に、封入していたカードのうち、美術裸体画シリーズが公序良俗を乱すと裁判となった。最終的に裁判には勝訴するものの、商品の回収と販売禁止の命令をうけた[16][17]
グリコのおもちゃ

江崎グリコの創業者である江崎利一は、1919年大正8年)にカキの煮汁に含まれるグリコーゲンからキャラメルを作り、栄養菓子「グリコ」を製作した[18]1922年(大正11年)、三越百貨店で販売を開始する[19][20]。しかし、当時の栄養菓子市場は、大手の森永製菓と明治製菓に占められており、資本金でも1/100程度のグリコがその市場に参入することは非常に困難を伴った[21]。江崎は販売促進のため前述のタバコカードをヒントにカード[22][23]や乳菓をおまけとして添付した[21]1927年昭和2年)頃から、このおまけは、メンコなどのおもちゃや、大阪造幣局で作られた銅製のメダルとなった[24][16][25]。当時はおまけと商品が同一のパッケージに入っていたが、子供たちが手探りで中身を調べる行為[16][25](現在で言うサーチ行為)を行うことに、小売店からの苦情が発生し、おまけと商品を別パッケージに入れる通称「おまけサック」が登場した[16][25][26]。このおまけサック導入によって、グリコの生産量は2、3倍となり、大きな発展を遂げる[27][16]。その後、懸賞商品の導入[28]や、様々な材質(セルロイド[29]アンチモンの合金であるアンチモニー製[30][31])でおもちゃが作られる様になった[32]。また、クーポン券の収集により賞品と交換する制度もこの次期に考案された[33]

太平洋戦争中は、おまけの材質も制限され、1942年(昭和17年)には、グリコのキャラメルもおまけが消え配給制となった(白色の箱の配給グリコ)[34]。1943年には物資不足から、グリコの生産も停止することになった[34]


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