おとなになれなかった弟たちに…
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『おとなになれなかった弟たちに…』(おとなになれなかったおとうとたちに)は、1983年偕成社が刊行した、米倉斉加年絵本目次

1 あらすじ

2 本について

3 タイトルについて

4 作品中の弟の名前のカタカナ表記

5 あとがきについて

6 米倉の半生記から

7 米倉の言葉

8 教科書での採用

9 出典

10 参考文献

あらすじ

太平洋戦争日本を舞台としており、作者(文中では1人称で「ぼく」)が国民学校(現在の小学校にあたる)4年生だったときに弟ヒロユキが生まれる。父は戦争に行き不在であった。戦争が激しくなり空襲を受け防空壕で毎晩暮らす生活の中で、日本中、もちろん作者の家も食料が不足し、は自分が食べる分を作者や作者の妹に回していたが、満足に食べない為に母は母乳が出なくなった。乳児であるヒロユキは乳を飲むしかないにも関わらず、ときどきにしか配給されないヒロユキの為のミルクを、甘いものが欲しい作者は盗み飲みしてしまう。そんな作者に母は怒るでもなく、『ミルクはヒロユキのごはんだから、ヒロユキはそれしか食べられないのだから』と言う。さらに空襲がひどくなり母は疎開を決心する。母と作者、ヒロユキ3人で親戚を訪れるが親戚は顔を見るなり用件も聞かずに『うちに食べ物は無い』という。やがて、疎開先も見つかるが、疎開先でも食べるものと交換に持っていた着物を出さねばならず、やがて着物も無くなる。そしてヒロユキは栄養失調で死亡する。母はヒロユキが死んだ際にも涙を見せなかったが、ヒロユキを小さなに入れるとき、棺が小さすぎてヒロユキの亡骸が納まらなかった。母は(ヒロユキがほとんど乳を飲むことができなかったにも関わらず)「大きくなっていたんだね」と言い、そして、それまで決して涙を見せなかった母がはじめて泣いた。終戦の約半月前のことだった[1]
本について

米倉斉加年『おとなになれなかった弟たちに…』は1983年11月初版発行で2001年7月にはすでに36刷を重ねている。表紙とあとがきを含めて34ページの絵本で、画家でもある米倉の絵が16枚記されている。最初の絵は銃弾に真ん中を打ち抜かれ砕け散った哺乳瓶の絵である[2]。また、現在の本には記されていない可能性はあるが、疎開先は福岡県の石釜地区であると記載されている。
タイトルについて

「おとなになれなかった弟たちに…」と「弟たち」と複数形にしている理由は、作者の弟のように栄養失調が原因でなくなった、弟と同じような思いをした乳幼児がたくさんいるためである
[3]。「おとなになれなかった弟たちに…」の末尾の点の数は、米倉の絵本のカバーでは5点、カバー背表紙と表紙では4点、奥付けでは3点、光村図書出版の教科書では6点である[1][4] 。

「…」とあるのは戦争で亡くなった弟たちに対する鎮魂歌(レクイエム)であることを意味している。

作品中の弟の名前のカタカナ表記

弟の名前は「ヒロユキ」。ヒロシマナガサキ(被爆地)と表記するのと同じ。作者の弟の実名であらわすよりも事柄を普遍化できるため[3]
あとがきについて

作者はあとがきにおいて、「戦争ではたくさんの人が死にます。そして老人、女、子どもと弱い人間から飢えて死にます。私はそのことをわすれません。」(中略)「そのことを私たちはわすれてはならないと思います。そのことをわすれて、私たちの平和は守られないでしょう」とし、また太平洋戦争は日本が始めたものであり朝鮮韓国中国、東南アジア諸国および南方諸島の多くの国の人民に日本人が苦しんだ以上の苦しみを与えたことを忘れてはならないとしている[1]
米倉の半生記から

米倉は日本経済新聞に連載した半生記のなかで語っている。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}息子から十一年後に娘が生まれた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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