いわさきちひろ
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2009年4月)

いわさきちひろ
生誕1918年12月15日
日本 福井県南条郡武生町
(現・越前市
死没 (1974-08-08) 1974年8月8日(55歳没)
墓地所沢市の狭山湖畔霊園
職業画家絵本作家
配偶者松本善明
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いわさき ちひろ(本名:松本 知弘 まつもと ちひろ、旧姓:岩崎)、1918年12月15日 - 1974年8月8日、女性)は、子供の水彩画に代表される日本画家絵本作家。初期作品には、岩崎ちひろ、岩崎千尋、イワサキチヒロ名義で発表されたものが存在する。夫は日本共産党衆議院議員弁護士松本善明。孫は絵本作家の松本春野

福井県武生(現在の越前市)生まれ。生涯「子どもの幸せと平和」をテーマとした[1]
人物
終戦まで

1918年、雪の降る師走の朝にちひろは三姉妹の長女として武生町橘で生まれた[2]。岩崎家は当時としては非常に恵まれた家庭であり、ラジオ蓄音機オルガンなどのモダンな品々があった。父・正勝はカメラも所有しており、当時の写真が数多く残っている。こども向けの本も多くあったが、それらはちひろの気に入るものではなかった。ある時隣の家で絵雑誌「コドモノクニ」を見かけ、当時人気のあった岡本帰一武井武雄初山滋らの絵に強く心を惹かれた。ちひろは幼少から絵を描くのが得意で、小学校の学芸会ではたびたび席画(舞台上で即興で絵を描くこと)を行うほどだった。

ちひろの入学した東京府立第六高等女学校(現在の東京都立三田高等学校)は、生徒の個性を重んじ、試験もなく、成績表も希望者に配布されるのみだったという。ここでもちひろは絵がうまいと評判だった。その一方で運動神経にも優れ、スキー水泳登山などをこなした。距離を選択することのできる適応遠足では最長のコースを歩くのが常だった。女学校教師だった母・文江は1926年(大正15年、昭和元年)、ちひろ7歳の時に第六高等女学校に勤務している。

女学校2年(14歳)の3学期、母・文江はちひろの絵の才能をみとめ、岡田三郎助の門をたたいた。ちひろはそこでデッサン油絵を学び、朱葉会の展覧会で入賞を果たした。ちひろは女学校を卒業したのち、岡田の教えていた美術学校に進むことを望んだが、両親の反対にあって第六高女補習科に進んだ。18歳になるとコロンビア洋裁学院に入学し、その一方で書家小田周洋に師事して藤原行成流のを習い始めた。ここでもちひろはその才能を発揮し、小田の代理として教えることもあったという。

1939年(20歳)4月、3人姉妹の長女だったちひろは両親の薦めを断り切れず、婿養子を迎えることになった。相手の青年はちひろに好意を持っていたものの、ちひろの方ではどうしても好きになれず、形だけの結婚であった。6月にはいやいやながら夫の勤務地である満州大連に渡ったが、翌年に夫の自殺により帰国することになった。ちひろは二度と結婚するまいと心に決める。帰国したちひろは中谷泰に師事し、再び油絵を学び始めた。再度習い始めた書の師、小田周洋は絵では無理でも書であれば自立できると励まされ、書家をめざした。

1944年(25歳)には女子開拓団に同行して再び満州・勃利に渡るが、戦況悪化のため同年帰国した。翌年には5月25日の空襲東京中野の家を焼かれ、母の実家である長野県松本市に疎開し、ここで終戦を迎えた。両親は戦後、同県北安曇郡松川村に開拓農民として移住した。

ちひろはこの時初めて戦争の実態を知り、自分の無知を痛感する。終戦翌日から約1か月間にここで書かれた日記『草穂』が残されており、「国破れて山河有り」(杜甫の詩より)の題でスケッチから始まるこの日記には、こうした戦争に対する苦悩に加え、数々のスケッチや自画像武者小路実篤の小説『幸福者』からの抜粋や、「いまは熱病のよう」とまで書かれた宮沢賢治への思いなどが綴られている。
善明との出会いと画家活動

1946年(27歳)1月、宮沢賢治のヒューマニズム思想に強い共感を抱いていたちひろは、日本共産党の演説に深く感銘し、勉強会に参加したのち入党した。5月には党宣伝部の芸術学校(後の日本美術会付属日本民主主義美術研究所、通称「民美」)で学ぶため、両親に相談することなく上京した。

東京では人民新聞社の記者として働き、また丸木俊に師事してデッサンを学んだ。この頃から数々の絵の仕事を手がけるようになり、紙芝居『お母さんの話』(1949年)をきっかけに画家として自立する決心をした。

画家としての多忙な日々を送っていたちひろだったが、1949年(30歳)の夏、党支部会議で演説する青年松本善明と出会う。2人は党員として顔を合わせるうちに好意を抱くようになり、ある時ちひろが言った何気ない言葉から、結婚する決心をした。翌1950年1月21日、レーニンの命日を選び、2人きりのつましい結婚式を挙げた。ちひろは31歳、善明は23歳であった。結婚にあたって2人が交わした誓約書が残っている。そこには、日本共産党員としての熱い情熱と、お互いの立場、特に画家として生きようとするちひろの立場を尊重しようとする姿勢とが記されている。

1950年、善明はちひろと相談の上で弁護士を目指し、ちひろは絵を描いて生活を支えた。1951年4月、ちひろは長男・松本猛を出産するが、狭い借間で赤ん坊を抱えて画家の仕事を続けることは困難であった。6月、2人はやむを得ず長野県北安曇郡松川村に開拓農民として移住していたちひろの両親のもとに猛を預けることにした。

ちひろは猛に会いたさに、片道10時間近くかけて信州に通った。猛を預けてからも、当然ながら猛に与えるはずの乳は毎日張る。初めのうちは自ら絞って捨てていたが、実際に赤ん坊に与えなければ出なくなってしまうのではないか、猛に会って授乳する時に充分出なくなってしまうのではないか、と懸念したちひろは、当時近所に住んでいた子供が生まれたばかりの夫婦に頼み、授乳させてもらった。ちなみに、その乳飲み子は後にタレントとなる三宅裕司だった。

善明は、1951年に司法試験に合格し、1952年4月に司法修習生となる。ちょうどそのころ、練馬区下石神井の妹・世史子一家の隣に家を建て、ようやく親子そろった生活を送ることができるようになった。善明は1954年4月に弁護士の仕事を始めて自由法曹団に入り、弁護士として近江絹糸争議メーデー事件松川事件などにかかわり、ちひろは夫を背後から支えた。

善明によれば、まだ司法修習生だった1954年、自宅に泥棒が入って私信を盗まれたり、執拗な尾行を受けたり、家政婦として住み込みで働いていた若い女性が外出中に誘拐され、ちひろの家族のことを事細かに聞かれたが隙を見て逃げ出した、と語る出来事などがあった。一連の出来事は陰湿なスパイ事件であったが、ちひろは沈着冷静に対処していたと回顧している[3][4]

1963年、善明は日本共産党から衆議院議員東京4区)に立候補し落選したものの、1967年に初当選した。ちひろは画家、1児の母、老親の世話、大所帯の主婦としての活動と並行して国会議員の妻として忙しい日を送ることになる[4]


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