いとしのレイラ
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「いとしのレイラ」
デレク・アンド・ザ・ドミノスシングル
初出アルバム『いとしのレイラ
B面アイ・アム・ユアーズ
リリース1971年 (1971)
規格レコード
録音1970年8月 (1970-08) - 9月
マイアミ, クライテリア・スタジオ
ジャンルブルースロック
時間<time datetime="7分02-11秒 (ピアノコーダ有り、アルバム別で時間が異なる)
2:43 (シングル版、コーダ無し)">7分02-11秒 (ピアノコーダ有り、アルバム別で時間が異なる)
2:43 (シングル版、コーダ無し)
レーベルアトコ (US), RSO, ポリドール
作詞・作曲エリック・クラプトン/ジム・ゴードン
プロデューストム・ダウド, デレク・アンド・ザ・ドミノス

ミュージックビデオ
「Layla」 - YouTube


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「いとしのレイラ」(原題:Layla)は、アメリカロックバンドデレク・アンド・ザ・ドミノスアルバムいとしのレイラ』(原題:Layla and Other Assorted Love Songs)のタイトル曲。作詞・作曲は、エリック・クラプトンジム・ゴードン。流麗なギターによる前半部分と、後半のピアノコーダ部分から成り、ロックの代表的なラブソングの1つと見なされる[1]。対照的な曲の前半と後半は、それぞれクラプトンとゴードンの作とクレジットされている(「執筆とレコーディング」の項も参照のこと)。

プロデューサーにはトム・ダウド、スライドギターでデュアン・オールマンも参加して個性を発揮し、クラプトンとバトルのような演奏を繰り広げていたという。
解説

1966年、ジョージ・ハリスンは映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 』の撮影時に出会ったモデルのパティ・ボイドと結婚した。60年代後半にクラプトンとハリスンは親友になっている。クラプトンはビートルズの『ホワイトアルバム』収録のハリスン作「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」においてギターで参加し、ハリスンはクリームの『グッバイ・クリーム』収録の「バッジ」を共同で作曲、L'Angelo Misterioso の変名でギターを演奏、録音に参加した。しかしながら、クラプトンの中で問題は醸造されていった。クリームからブラインド・フェイスへと活動の形態が変化していく内に、クラプトンはボイドと恋に落ちた(結婚後に破たん)[2]

「いとしのレイラ」は12世紀のペルシア文学の詩人、ニザーミー・ギャンジェヴィーによる『ライラとマジュヌーン』からインスパイアされた[3]。クラプトンはこの曲を書いたとき、イスラム教に改宗した友人のイアン・ダラスから聞いた話について語った[4]。物語は、父親に結婚を禁じられた月の王女と、彼女を絶望的に恋する若者マジュヌーンが気が狂ってしまうと言うもので、クラプトンに深い感銘を与えた[5][6]。クラプトンは自叙伝で「イアン・ダラスはライラとマンジュンの物語を僕に話してくれた。ロマンチックなペルシャのラブストーリーで、青年マンジュン(Manjun [ママ])が美しいライラと情熱的な恋に落ちるけれど、彼女の父親から結婚を禁じられ、欲望のままに気が狂ってしまう話だ[7]。」と述べている。当時のクラプトンも、親友ジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドに恋愛感情を持ち、その苦悩が曲に中に表現されている。

ボイドは1977年にハリスンと離婚し、1979年、コンサートツアー途中のアリゾナ州ツーソンでクラプトンと結婚した[8][9]。ハリスンは離婚を苦に感じず、リンゴ・スターポール・マッカートニーと共にクラプトンの結婚祝賀会に出席した[10]。クラプトンはその後、パティのためにもう一つのラブバラード、「ワンダフル・トゥナイト」(1977)を作曲した[11]。クラプトンとボイドは数年間の別居の後、1988年に離婚した[12]
レコーディング

クリーム解散後、クラプトンはブラインド・フェイスデラニー&ボニーを含むいくつかのグループと共演した。1970年春に彼はデラニー&ボニーのベーシストのカール・レイドル、ドラマーのジム・ゴードン、キーボードのボビー・ウィットロックがバンドを脱退することを告げられる。クラプトンはこの好機を逃さずに彼らと共に新たなバンド、デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成した[13]

1970年の中頃から後半にかけて、デュアン・オールマンがゲストとしてこの未熟なバンドに参加した。クラプトンとオールマンは互いにそれぞれのファンであったが、オールマン・ブラザーズ・バンドのコンサートでトム・ダウドによって紹介された[14]。彼らはすぐに意気投合し、良い友人となった。ダウドは彼らのギタープレイが起こす化学変化について以下のように述べた「私はこれまで自然発生的なインスピレーションをそのようなレベルと割合で起こるのを見たことが無かったので、先へ進むある種のテレパシーがなければなかった。1人が何かをすると、もう1人が即座に反応した。彼らのどちらも『もう一度それをしてもらえるかい?』と言う必要は決してなかった。それは、手袋をはめた2本の手のようだった。そして彼らは、互いとのプレイにものすごく夢中になった。[15]」ダウドはすでに様々な業績で有名であり、クラプトンとはクリーム時代に仕事をしていた。(クラプトンはかつて彼を「理想的なレコーディングマン」と呼んでいる。)彼の本作に対する貢献はもう一つの業績である。彼の業績を記録した『Tom Dowd and the Language of Music』では、「いとしのレイラ」のオリジナル・マスターテープをリミックスしており[16]、「一つの形またはもう一つにおいて、私の信条がある。」と語っている[14]

クラプトンは、パティ・ボイドへの横恋慕を歌詞にして、元々はバラードとして「レイラ」を作曲した。しかしオールマンによれば、印象的なリフが作り出されたことで、曲は「ロック」になったという[15]。バンドが集まり、ダウドがプロデュースしたことで「レイラ」のオリジナルが録音された。レコーディングの最初のセクションでは16トラックが使用され、その内6トラックがギターであった。リズムトラックはクラプトンで、ハーモニーの3トラックを演奏した。(メインのパワーコードリフ、それに対するハーモニーの一つは左チャンネル、もう一つは右チャンネル)ソロトラックはオールマンによるもので、もう一つのトラックにはクラプトンとオールマンがソロを共に録音した[15][17]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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