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いつみても波瀾万丈
ジャンルトーク番組 / バラエティ番組
構成上下真三、中本麻理
浜田悠、武田隆
兼上頼正、岡本寛子
出演者逸見政孝
福留功男
間寛平
野際陽子
ほか(出演者を参照)
製作
チーフ・プロデューサー柏木登(初期)
ほか
製作日本テレビ
放送
放送国・地域 日本
放送開始から1996年3月まで
放送期間1992年3月22日 - 1996年3月
放送時間日曜日 9:30 - 10:25
放送分55分
1996年4月から放送終了まで
放送期間1996年4月 - 2008年9月28日
放送時間日曜日 9:55 - 10:55
放送分60分
番組年表
前作いつみても平平凡凡
次作誰だって波瀾爆笑
特記事項:
ナレーター:来宮良子、武田広
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『いつみても波瀾万丈』(いつみてもはらんばんじょう)は、日本テレビ系列およびフジテレビ系列の沖縄テレビで放送されたトークバラエティ番組。1993年までは逸見政孝の冠番組でもあった。製作局の日本テレビでは1992年3月22日から2008年9月28日まで、毎週日曜 9:30 - 10:25 (1996年3月まで)→日曜 9:55 - 10:55 (1996年4月以降)に放送[注 1]。2006年12月3日放送分からはハイビジョン制作となっていた。 本番組は毎回1人または1組のゲストを招き、そのゲストの波瀾万丈な人生を再現VTRとゲスト本人とのトークで振り返っていた。 元々は、逸見政孝が司会の同系『いつみても平平凡凡』(芸能人とその家族がゲスト出演のトーク番組だった。最後に賞品獲得をかけたゲームに挑戦。)を引き継ぐ形で、逸見と間寛平、そして野際陽子が新たにレギュラーとして加入され、1992年3月22日にスタートした。 ところが、1993年9月6日に逸見が癌の再発による闘病へ専念する事を公表し、一切の仕事を完全休止したため事実上降板。最後の出演は会見2日前の9月4日に収録し、翌9月5日(癌告白会見の前日)に放送された蔵間竜也がゲストの回であり、逸見自身にとって生涯最後の仕事となった。 同年9月12日からは、福留功男が代理司会を担当する。その福留が代理司会初回の冒頭では、逸見より病床から「野際さん、寛平さん、そして(遠野)舞子ちゃん。この度は本当に色々、迷惑を掛けて申し訳ありませんでした。福留さんには本当に急なお願いで、申し訳有りません。大変だと思いますが、ひとつ宜しくお願いします。がんばります」等という録音メッセージが放送される。その後、福留と野際を筆頭にレギュラー陣が「逸見さんも頑張って下さい、有難う御座いました。(私達も)頑張りましょうね!」と笑顔でエールを送っていた。 しかしそれから僅か約3か月半後、同年12月25日に逸見が癌性悪液質の病因により、念願の復帰は叶わずに48歳の若さで逝去。翌26日は当初予定の内容を急遽変更し、生放送に切り替え逸見を追悼する内容で放送された[注 2]。福留・野際・寛平(但し遠野は欠席)の3人で番組進行の最後、それぞれ逸見の訃報に対して、福留は「どうして帰って来なかったのか?とほんとに私も思いますけれども…」「人間として自分が家族に責任を持ち、仕事に責任を持とうと…そういう気持ちをしっかりとこう、男として持たなければいけない事を教えてくれたって言う、僕は仲間として一番それを強く感じました」、野際は「9月の蔵間さんの撮りの後で、寛平さんと一緒に話を伺った時に、(逸見さんは)『本当に悔しい』と仰ってましたけれども」「でも闘う為に、入院するんですから。必ず返ってくるって…帰って来るつもりで、ああいう闘病の仕方を選んだのですから。ほんとに還ってらっしゃると、信じてましたし私も…」、寛平は「悔しかったですね。聞いた時『何でやねん!』と思いましたね…」等と、揃って無念さの余りに涙声で言葉を詰まらせている。この日の放送では本番組と「平平凡凡」の映像が流された。 それ以後は福留が、そのまま正式に2代目司会者に就任し、最終回まで司会を務めた。なお、前身番組時代からタイトルに付けられた「いつみても」は、初代司会者である逸見の名字「いつみ」から取ったものである。このことは、逸見がかつて在籍していたフジテレビの5期先輩にあたる露木茂がゲスト出演した際にも福留が再確認する表現がなされた。 2004年3月に日本テレビの本社が麹町から汐留に移転した後も、しばらくは麹町分室のスタジオで収録されていたが、その後番組終了までは汐留本社スタジオにて収録されていた。2004年10月30日の放送では1992年の番組開始以来初めてスタジオを飛び出しての野外収録ロケが行われた。場所はこの回のゲストのエッセイスト・玉村豊男の農園場の長野県の東御市から。そのほか、2005年3月6日の放送では倉本聰の活動場所でもある北海道富良野市にて屋内での収録ロケ、2007年5月6日の放送では当時宮崎県の東国原英夫知事の地元にある宮崎市のシェラトン・グランデ・オーシャンリゾートにて屋外での収録ロケ(全編4:3SDで収録)、2008年8月3日の放送では田中義剛の花畑牧場がある北海道中札内村にて屋外での収録ロケがそれぞれ行われた。 年始最初の放送では11:25までの90分スペシャルで放送されることがあるが、一部地域では通常の10:55で終了するネット局もある(読売テレビは大半このケースで、その場合、提供アナウンスは読売テレビが自社で送出する[注 3])。2008年は12時台に全国高校サッカー準決勝の中継を控えているため11:10までの75分スペシャルでの放送となった[注 4](BS日テレでは2008年2月1日の22:00 - 23:15に放送された)。 次回予告のナレーションは福留が担当していたが、2008年4月6日放送分からナレーションの武田広が担当していた。 長く日本テレビの看板番組として定着したが福留の高齢やギャラの問題もあり2008年9月28日をもって番組は終了し、16年半の歴史に幕を閉じた。後番組として堀尾正明、溝端淳平、関根麻里の司会により本番組のコンセプトをそのまま継承し、「波瀾」のタイトルを残した『誰だって波瀾爆笑』が10月5日にスタートしたが、同番組も視聴率低迷等から2020年3月29日に終了。『いつみても平平凡凡』以来30年に渡る本放送枠でのトーク番組シリーズに終止符が打たれた。
概要
出演者
司会者
逸見政孝(初代:1992年3月22日 - 1993年9月5日)
福留功男(2代目:1993年9月12日 - 2008年9月28日)