いたばし花火大会
Itabashi Fireworks Festival
いたばし花火大会の全景
概要
通称、略称いたばし花火大会
正式名称いたばし花火大会
開催時期毎年8月第1土曜日
初回開催1951年(昭和26年)8月18日[1]
会場・場所東京都板橋区舟渡・荒川戸田橋上流板橋側河川敷[1]
打ち上げ数戸田市と同日開催し過去最多約13,000発(都内最大「尺五寸玉」の打上)[2]発
主催板橋区産業経済部くらしと観光課
板橋区観光協会[1]
協力国土交通省荒川下流河川事務所[1]
運営板橋区
人出52万[3]人(令和元年 2019年)
最寄駅JR埼京線浮間舟渡駅、都営地下鉄
三田線蓮根駅・西台駅・高島平駅[1]
外部リンク ⇒いたばし花火大会
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いたばし花火大会の全景いたばし花火大会の全景(2017年8月5日)いたばし花火大会の提灯(2015年8月1日)
いたばし花火大会(いたばしはなびたいかい)は、毎年8月に東京都板橋区舟渡の荒川の戸田橋(国道17号、通称中山道の橋)上流の河川敷において行われる花火大会である。 板橋原の記述のある『慶長見聞集』によると「昔は江戸近辺、神田の原より板橋まで見渡し、竹木は1本もなく、皆野らなりし。」とあり、江戸初期まで広漠たる原野であった[4]。天正18年(1590年)8月、徳川家康が関東の領主として江戸入城の頃は、江戸は寂れた宿町だったとの記録がある。家康は江戸城の守りを固めるために要の土地と屋敷を与え、睨みを利かせていた[4]。幕府の参勤交替制により、大名は一年宛領地と江戸で交互に暮らし、幕府は大名や旗本などに邸宅地を与え、本邸は江戸城周辺近くに、その外に身分に応じ中屋敷を、更に都心から離れた地に下屋敷を営んだ[4]。 加賀国金沢の城主前田氏は、尾州、紀州、水戸の御三家に次ぐ席次を保った[5]。本邸は本郷にあり、下屋敷は下板橋宿に与えられ、中山道によって領地と往復した[5]。下屋敷は延宝7年(1679年)2月、6万坪を賜わり、延宝8年(1680年)に幕府に廃地10万坪を返上し、替地として接する平尾の土地14万坪を与えられた[5]。その後、天和3年(1683年)、21万7千9百坪に拡張して明治維新に至った、下屋敷は現在の板橋六、七丁目で石神井川に至る広大なものだった[5]。 花火を日本で最初に観たのは徳川家康という定説がある、『駿府政事録』によれば「慶長18年(1613年)8月3日、明国の商人がイギリス人を案内して駿府城に徳川家康を訪ね、家康に城の二の丸で花火を供覧した。」との記述がある[6]。板橋の花火の始まりは古く、第12代藩主・前田斉泰の日記『温敬公日記』によれば、天保4年(1833年)6月27日に、「江戸の前田家下屋敷である板橋の平尾邸に於いて「大花火」が開催され斉泰一行が見物した」という記録がある[7]。花火見物には、斉泰、溶姫(斉泰の奥方)、真龍院(斉泰の母親)らが一緒し、本邸である本郷邸上屋敷(現・東京大学の敷地[4])を午後1時過ぎに出発して、下屋敷のある平尾邸(下板橋宿)を訪れて花火見物を終え上屋敷には午後9時に帰宅した[7]。 平尾邸は、広大な敷地に池泉回遊式の大庭園があり、藩主一家やその親族だけしか使えない場所で、散策、鷹狩、園遊会、花火などが行われ、花火見物は前田家の人と関係者だけに限られていた[7]。大花火見物当日は、庭園の築山に造られた庭全体が見渡せる舟山亭(現・板橋三丁目付近)に席を設け、昼は重箱の料理やお酒を楽しみ、夜は大規模な打上花火を見物した[7]。
歴史
かつての板橋
天保に花火大会