いずみたく
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この項目には、一部のコンピュータや閲覧ソフトで表示できない文字(Microsoftコードページ932はしご高))が含まれています(詳細)。

いずみ たく
カザン『食生活』第57巻第8号(1963)より
基本情報
出生名今泉隆雄
生誕 (1930-01-20) 1930年1月20日
出身地 日本東京市下谷区
(現:東京都台東区
死没 (1992-05-11) 1992年5月11日(62歳没)
学歴舞台芸術学院演劇学科
ジャンル歌謡曲
職業作曲家政治家
活動期間1950年代 - 1992年

いずみ たく(1930年昭和5年〉1月20日 - 1992年平成4年〉5月11日)は、日本作曲家政治家。元参議院議員第二院クラブ)。中黒を付けていずみ・たくと表記される場合もある。[1]本名は今泉 隆雄(いまいずみ たかお)。
概要

東京市下谷区(現:東京都台東区谷中生まれ。

仙台陸軍幼年学校に在学中、敗戦を迎える。

東京府立第五中学校を経て、1946年昭和21年)、一期生として鎌倉アカデミア演劇科に入学する(同窓生として前田武彦高松英郎らがいた)。1950年昭和25年)に舞台芸術学院演劇学科を卒業後、ダンプの運転手などをしながら芥川也寸志に師事し、作曲活動を始める。後に三木鶏郎が率いる冗談工房に参加し、トリローグループの一員ともなった。1955年昭和30年)には、朝日放送ホームソングコンクール[2]・グランプリを受賞。

歌謡曲(演歌調からシャンソン風、ブルース、ポップスまで曲調はさまざま)から、フォークソング、CMソング、アニメソング、ミュージカル、童謡、校歌、交響曲(笙や能管などと管弦楽の組み合わせという作品も含めて数曲が残されている)と幅広いジャンルの曲を作曲。多作で知られ、総作数は15,000曲に上るという。

1960年には永六輔とともにミュージカル「見上げてごらん夜の星を」を制作。

1963年には、芸能プロダクション「オールスタッフプロダクション」を設立。いしだあゆみピンキーとキラーズ佐良直美らが所属していた[3]

1965?69年にかけて永六輔作詞で47都道府県の”ご当地ソング”をデューク・エイセスが歌う「にほんのうた」シリーズを作った。このシリーズからは「いい湯だな」(群馬県)、「女ひとり」(京都府)、「フェニックス・ハネムーン」(宮崎県)などのヒット曲がある。

1969年昭和44年)には佐良直美の『いいじゃないの幸せならば』が第11回日本レコード大賞を受賞した。「にほんのうた」シリーズで、1966年第8回日本レコード大賞 企画賞、1969年第11回日本レコード大賞 特別賞を受賞。

1972年昭和47年)テイチク・レコード傘下にBLACKレーベルを開設。1973年には新たな発想に、「オールスタッフプロダクション」所属者、楽曲を提供していたNHK総合テレビの音楽番組「ステージ101」のレギュラー出演者グループであるヤング101の卒業生[注 1]グループ・サウンズフィフィ・ザ・フリー元メンバーなどをスカウト等から集め、自身がプロデュースと監督を務める「いずみたくシンガーズ」を結成した。全国放送テレビ番組出演に、地方各地をステージ公演する活動を行った。「いずみたくシンガーズ」は舞台では、歌手兼ダンサー・チームと演奏者・バンドの二部体制をとったがレギュラー出演した「カリキュラマシーン」では、演奏者もダンスやコントに参加、1974年発表「帰らざる日のために」、「徹子の部屋」テーマ曲(「徹子の部屋のテーマ」、ただし演奏者クレジットは非公開)などは編曲アレンジの都合から歌手チームのみ起用されている。結成当初メンバーには 「いずみたくシンガーズ」を米国の「マイク・カーブ・コングリゲイション」同様の集団組織中核、または増員を図る計画を伝えていた。メンバー交代やいずみたくの構想変更から1976年には「オールスタッフプロダクション」斡旋のソロ活動やセッション演奏活動に移行し発展解消、事実上自然消滅解散する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:111 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef