あにき
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .hatnote{margin:0.5em 0;padding:3px 2em;background-color:transparent;border-bottom:1px solid #a2a9b1;font-size:90%}

この項目では、TBS放映のドラマについて説明しています。その他あにきについては「アニキ」をご覧ください。

あにき
ジャンル連続ドラマ
ホームドラマ
脚本倉本聰
演出井下靖央
大山勝美
出演者高倉健
倍賞千恵子(第2回、第4回、第5回、第6回、第7回、第8回、第9回、第10回に出演)
ナレーター滝田ゆう
製作
プロデューサー大山勝美
渡辺正文
制作TBS

放送
放送国・地域 日本
放送期間1977年10月7日 - 1977年12月30日
放送時間金曜 22:00 - 22:54
放送枠金曜ドラマ (TBS)
放送分54分
回数13
テンプレートを表示

『あにき』は1977年10月7日から1977年12月30日まで金曜ドラマの枠で放送されたTBSの連続テレビドラマ高倉健のドラマ初主演作品(連続ドラマでの主演作は最初で最後[注釈 1]
あらすじ

東京下町人形町鳶職の組頭として働く神山栄次と、その兄妹・家族の人間愛を描く。
製作

高倉健東映から独立して間がなく[出典 1]、当時は映画で人気のあるスターは、テレビに出演しないのがまだ伝統として残り[2]、テレビで出ると「落ちた」というイメージをもたれた[2]。高倉はテレビに出ない最後の大物と評され[2]、このため各テレビ局が高倉をテレビに引っ張り出そうと躍起になっていた[2]。当時の高倉は『八甲田山』が1977年6月に公開されるまで、映画記者の間でも「高倉はどうしているのか」と囁かれるほど沈黙している状況で[1]、『幸福の黄色いハンカチ』は本作と並行して撮影が行われていた[1]加東康一は1977年夏に書いたと見られる映画誌の高倉の記事で「話題作に続々出演する高倉が今年急浮上するのではないか」と書いている[1]

TBSの音楽プロデューサー渡辺正文が、1973年に東日貿易の久保正雄(久保満沙雄)[2]社長を介してサミー・デイヴィスJr.と高倉と会食する機会を得て[1]、音楽好きな高倉とウマが合い、渡辺も高倉に惚れ込んで諦めずにテレビ出演を口説き続けた[1]。有名人は外で目立って遊べないことから、六本木の久保邸には高倉を始め、長嶋茂雄張本勲土井正三白井貴子江利チエミディック・ミネ[出典 2]、多くの有名人が集まって麻雀をしたり、酒を飲んだりして遊んでいた[出典 3]。久保は部下の桐島正也とともに伊藤忠商事瀬島龍三とタッグを組み[出典 4]デヴィ・スカルノを使って[出典 5]インドネシアの戦後補償を巡り[出典 6]池田勇人首相スカルノインドネシア大統領を繋いだ政商[出典 7]

高倉は多くの映画人から「あなただけはテレビに出てほしくない」と言われ決断がなかなか出来なかったが、渡辺プロデューサーの熱意に負け、「ものによっては出てもいい」と返事をした[2]

渡辺はこれ以降、高倉と親しい間柄になったと見られ、1982年の『週刊平凡』で本作を振り返り「『あにき』をやることになって、さて誰に脚本を頼もうかって考えたんだけど、ケン坊の話によると倉本聰っていう男から来た手紙が山のようにたまっているというんだな。ケン坊の熱烈なファンで、映画を見るたびに感想を送ってくるっていうんだよ。ところがケン坊もボクも倉本聰なんて名前、そのころ知らなくてねえ。ハハハ…。局長に話したら『おいおい、そいつは脚本家の天皇みたいなやつだよ』なんていわれてビックリしたもんですよ。ハハハ。付き合ってみると分かるけど、ケン坊はデリケートな人間でね。『あにき』のときもえらく緊張していたねえ。『田中邦衛がいてくれたらやりやすいんだけどなあ』なんて言うんで、クニさんに共演を頼んだこともあったね。基本的にシャイな人だから、交際範囲はあまり広くないね。ボクだって、何かテーマがないと会いにくいくらいでね」などと述べている[10]
脚本

高倉は出演作の選定に慎重な人で[2]、ドラマ出演を決めると誰の脚本がいいか、色んな人に聞いた[2]。それで倉本聰が非常に優れた脚本家だという評判を聞いた[2]。また倉本は以前から高倉の大ファンで、「あなたのドラマを書かせていただきたい」という手紙を貰っていた[2]。手紙を貰っていた恩義もあり、意気に感じた高倉が倉本に連絡を取り、倉本がTBSの大山勝美プロデューサーを紹介し、その場で高倉が「お任せします」と返事した[2]。大山は萬屋錦之介のテレビドラマを手掛けたことがあり、錦之介を兄貴分と慕う高倉は錦之介から大山のことも聞いていた[2]

渡辺は音楽プロデューサーながら「下町を舞台とした粋なテレビドラマをやってみたい」という構想をもっており[11]、1973年頃から高倉、渡辺、倉本の3人で会って話をするようになった[11]。健さんの映画でのイメージを崩さずに、なおかつテレビ的な映像にどう合わせるかという問題があり、失敗は許されない仕事で倉本は苦労して脚本を書いた[2]。1975年頃から脚本に取りかかりかなりの時間を費やし[出典 8]、「東京下町のいなせなとび職の頭が、カリエスで病床に伏したままの妹を嫁がせるまでの物語を、迷い込んできた現代っ娘と交流を交えて描く」とコンセプトが決まった[1]。『ロッキー』の兄妹をヒントに『駅 STATION』の原型のような話になった[2]
キャスティング

大山が「共演するなら誰とやりたいですか?」と高倉に聞いたら、高倉は倍賞千恵子田中邦衛を挙げた[2]。田中邦衛は高倉と仲が良く、収録中もよく話をしていたという[2]。田中も高倉も普段から筋トレに励み、ハード過ぎて萩原健一が高倉と一緒に腹筋運動をやってゲロを吐いたというエピソードもある[2]。他に大山が高倉を慕う大原麗子に出演を頼んだら大喜びで参加[2]。大原が高倉の妹を、『八甲田山』で共演していた秋吉久美子にも声をかけ、現代っ娘役を秋吉が演じる[1]。秋吉は1972年の田宮二郎主演のTBSドラマ『白い影』のオーディションを受けに来ていて落選したが、大山プロデューサーが稽古場にあまりにも目立つ可愛い子がいて声をかけた[2]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:60 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef