あさま山荘事件
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あさま山荘事件
浅間山荘(2009年
場所 日本長野県北佐久郡軽井沢町
座標.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯36度17分20.93秒 東経138度37分19.38秒 / 北緯36.2891472度 東経138.6220500度 / 36.2891472; 138.6220500座標: 北緯36度17分20.93秒 東経138度37分19.38秒 / 北緯36.2891472度 東経138.6220500度 / 36.2891472; 138.6220500
日付1972年昭和47年)2月19日 - 2月28日 (日本標準時)
概要人質 立て籠り発砲事件
攻撃側人数5人
武器猟銃(散弾銃ライフル)、拳銃、鉄パイプ爆弾
死亡者3(警察官2、民間人1)
負傷者27(警察官26、報道関係者1)
犯人連合赤軍坂口弘坂東國男吉野雅邦加藤倫教・加藤の弟)
対処人質を救出し犯人全員を逮捕
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あさま山荘事件または浅間山荘事件[注釈 1](あさまさんそうじけん)は、1972年昭和47年)2月19日から2月28日にかけて、長野県北佐久郡軽井沢町にある河合楽器製作所(本社・静岡県浜松市)の保養所「浅間山荘」[注釈 2]において連合赤軍の残党が人質をとって立てこもった事件である。
概要

1972年(昭和47年)2月19日、日本の新左翼組織連合赤軍の残党メンバー5人が、管理人の(当時31歳)を人質に浅間山荘に立てこもった。山荘を包囲した警視庁機動隊及び長野県警察機動隊人質救出作戦を行うも難航し、死者3名(機動隊員2名、民間人1名)、重軽傷者27名(機動隊員26名、報道関係者1名)を出した。10日目の2月28日に部隊が強行突入し、人質を無事救出、犯人5名は全員逮捕された。人質は219時間(約9日)監禁されており、警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録である。

酷寒の環境における警察と犯人との攻防、血まみれで搬送される隊員、鉄球での山荘破壊など衝撃的な経過がテレビ生中継され、注目を集めた。2月28日の総世帯視聴率は調査開始以来最高の数値を記録し、18時26分(JST)には民放日本放送協会(NHK)を合わせて視聴率89.7%(ビデオリサーチ関東地区調べ)に達した[5]。同日のNHKの報道特別番組(9:40 - 20:20)[6]は、平均50.8%の視聴率(ビデオリサーチ・関東地区調べ)を記録した[5]。これは事件から50年以上が経過した2023年現在でも、報道特別番組の視聴率日本記録である。
浅間山荘の概要と現在

事件の舞台となった浅間山荘は当時、「軽井沢保養所浅間山荘」という名前で河合楽器製作所健康保険組合が所有しており、現在の軽井沢レイクニュータウン内にあった。軽井沢レイクニュータウンは1962年より開発が始まったリゾート別荘地で、多くのホテルが立ち並び、1963年には軽井沢湖という湖も完成し人気を博したが、山奥ということもあり、競合するリゾート地が現れ始めると徐々に人気が下火となっていった。

現在は当時の開発区域の一部だけが残っており、2007年には軽井沢湖のほとりに軽井沢レイクガーデンという英国式庭園が開業したが、かつてほどの賑わいはなく、山奥の静かな別荘地として存続している。
事件の発端
1971年

1970年代初頭、連合赤軍の前身である日本共産党(革命左派)神奈川県委員会[注釈 3](マスコミ通称「京浜安保共闘」)および共産主義者同盟赤軍派の両派は、それぞれ連続銀行強盗事件および塚田銃砲店襲撃事件を起こして資金や銃・弾薬を入手し、特異かつ凶暴な犯行を繰り返しながら逃走を続けていた。これに対し警察は、都市部で徹底した職務質問やアパートの居住者に対するローラー作戦を行いながら(塚田銃砲店襲撃事件が発生した1971年2月は「捜査強化月間」とされ、全国24万箇所の一斉捜査が行われた[7])、総力を挙げてその行方を追っていた。一方、一連の学園紛争が終焉を迎えた当時にあって、マスコミ関係者の間でも一部の公安担当記者らを除いては両組織の存在すら知られていなかった[8]

警察に追われていた両派のメンバーは、群馬県の山岳地帯に警察の目を逃れるための拠点として「山岳ベース」を構え、連合赤軍を旗揚げした。潜伏して逃避行を続けていたが、まもなく警察の山狩りが開始されたうえ、外部からの援助なども絶たれたため、組織の疲弊が進む。

1971年の年末から、山岳ベースにおいて「銃による殲滅戦」を行う「共産主義化された革命戦士」になるための「総括」の必要性が最高幹部の森恒夫永田洋子によって提示され、仲間内で相手の人格にまで踏み込んだ自己批判と相互批判が次第にエスカレートしていき、「総括」に集中させるためとして暴行・極寒の屋外での束縛・絶食の強要などをされた結果、約2ヶ月の間に12名にも及ぶ犠牲者を出し(山岳ベース事件)、内部崩壊が進んでいた。同時に群馬県警は350名を動員して大規模な山狩りを開始しており、県内の山岳ベースで息を潜めていた連合赤軍メンバーに対する包囲網は迫っていた。
1972年

1972年2月15日、近隣住民から「不審な火の手が上がっている」との通報を受けて駆けつけた群馬県警が榛名ベースの焼け跡を発見した[9][10]。妙義山ベースに潜伏中であった坂口弘らは、直前まで事実上の拠点として使用していた榛名山ベース跡地発見のニュースラジオで知ると群馬県警察の包囲網が迫っていることを悟り、メンバーに迦葉山ベースの解体を指示するとともに資金調達のために上京していた最高幹部の森と永田と協議するべく、東京へ向かおうとした[10]

坂口弘植垣康博ら5人は森・永田との合流のため東京で借りたレンタカーのライトバンで出発したが、妙義湖近くの林道で泥濘に嵌り身動きが取れなくなったところを付近を捜索していた警官2人に見つかり、職務質問[注釈 4]を受ける。警官らは当初車両の脱出を手助けしていたが、指名手配されていた坂口・植垣ら3人は警官が目を離している隙に逃亡、残されたメンバー2人は9時間の車内での籠城の末(この間に車内の男女は警官らの呼びかけに一切応じず、缶詰を食べたり、放尿したりした)、迦葉山ベースを作った際に国有林の木を違法伐採したとする森林法違反(森林窃盗)容疑で逮捕された[10][11][12]

この間に運良く通りかかった工事用トラックに便乗させてもらいベースに戻ることができた坂口らは、留守をしていた6人のメンバーを引き連れて(合計9人)、森・永田不在のまま、急遽山越えにより群馬県を出て隣接する長野県の佐久市方面へ逃げ込むことにした[13]。長野県では、まだ警察が動員されていないと思われていたためである。

同日、警察は迦葉ベース跡地も発見し、連合赤軍メンバーの足取りを徐々に掴みつつあった。事態を受けて、冬期は少人数しか配置されていなかった軽井沢署が限られた人員を割き、署長も含めた署員らが拳銃を携行して和美峠で逃走者を待ち構えていたが、連合赤軍メンバーは警察が警戒しているであろう道路を避け、敢えて急斜面の沢を伝って移動する困難なルートを選択した[11]

ヘリコプターやパトカーをかわしながら雪山の道なき道を進んだ連合赤軍は、装備の貧弱さと厳冬期という気象条件が重なって山中で道に迷い、軽井沢へ偶然出てしまった[注釈 5]


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