「真田信重」とは別人です。
凡例真田信繁 / 真田幸村
上田市立博物館所蔵
時代戦国時代 - 江戸時代初期
生誕永禄10年(1567年)[注釈 1]または
元亀元年2月2日(1570年3月8日)[注釈 2]
[注釈 3]
死没慶長20年5月7日(1615年6月3日)?
改名弁丸/[4](幼名)→信繁→好白(法名)
別名幸村(「真田幸村」の由来を参照)、豊臣信繁
通称:源二郎/源次郎
道号:好白斎、偽名:伝心月叟
戒名大光院殿月山傳心大居士
墓所長野県長野市の長国寺
京都府京都市の龍安寺塔頭大珠院
京都府京都市の妙心寺塔頭養徳院
宮城県白石市の墓所
福井県福井市の孝顕寺
秋田県由利本荘市の妙慶寺
鹿児島県南九州市の墓所
秋田県大館市の一心院
大阪府大阪市天王寺区の心眼寺
官位従五位下、左衛門佐
主君武田勝頼→真田昌幸→上杉景勝→豊臣秀吉→秀頼
氏族武藤氏→真田氏(清和源氏海野流)、豊臣贈姓
父母父:真田昌幸
母:山手殿(寒松院)[異説有]
兄弟村松殿、信之、信繁、信勝、昌親 ほか
妻正室:竹林院(大谷吉継の娘)
側室:隆清院(豊臣秀次の娘)[5][6]
側室:堀田興重の娘[7]または妹[8]
側室:高梨内記の娘
子阿菊/すへ(石合重定/道定室)[9]、於市、
阿梅(片倉重長後室)、あくり(蒲生郷喜室)、
幸昌、なほ(御田姫、岩城宣隆室)、阿昌蒲(片倉定広
真田 信繁(さなだ のぶしげ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将、大名[10]。真田 幸村(さなだ ゆきむら)の名で広く知られている。官位である左衛門佐の名が呼称になる事もあり、輩行名は源二郎もしくは源次郎。
豊臣方の武将として大坂夏の陣において徳川家康を追い詰め、本陣まで攻め込んだ活躍が江戸幕府や諸大名家の各史料に記録され、「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」とも評された。後世、軍記物、講談、草双紙(絵本)などが多数創作され、さらに明治-大正期に立川文庫の講談文庫本が幅広く読まれると、甲賀忍者である猿飛佐助を筆頭とした真田十勇士を従えて宿敵である徳川家康に果敢に挑む英雄的武将というイメージで、庶民にも広く知られる存在となった。日本の国民的ヒーローともされる[11][12][13][14][15][16][17]。